扶氏医戒之略―緒方洪庵が残した医師の心得

「扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)」は、幕末の蘭学者・緒方洪庵が、ドイツの医師クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェランドの医学書をもとに、医師としての心得を12箇条にまとめたものです。

洪庵はフーフェランドの文章を単純に翻訳したのではなく、内容を取捨選択し、自らの医師としての考えも重ねながら、当時の日本人にも分かりやすい文章にまとめました。現在でいえば「医師の職業倫理」「医療者の行動規範」に近いものです。

150年以上前の文章ですが、読んでみると、現在の医療にもそのまま通じる内容が少なくありません。

1.医療は自分のためではなく、患者のために行う

医師の仕事の目的は、名声や利益を得ることではなく、病人を救うことにある。

自分の安楽や名誉、金銭を優先するのではなく、患者の利益を第一に考えるべきだという教えです。

現代風に言えば、「患者中心の医療」の原点ともいえる考え方です。

2.患者を身分や貧富によって区別しない

身分の高い人、低い人、裕福な人、貧しい人によって診療態度を変えてはいけない。

当時は身分制度が残っていた時代です。その時代に「患者は平等に診るべきだ」と説いているのは、かなり先進的な考え方だったと思います。

現在の医療倫理における公平性にもつながります。

3.新しい治療をむやみに患者で試さない

医師は自分の知識や技術を誇示するために治療をしてはいけない。

新しい薬や治療法を使う場合も、患者の利益を考え、慎重でなければならないという趣旨です。

現在の臨床研究やインフォームド・コンセントにも通じる考え方でしょう。

4.医術だけでなく、人としての品格も磨く

医師は医学知識だけ身につければよいわけではありません。

日常の言葉遣いや行動にも注意し、人から信頼される人物になるよう努めることが求められています。

また、巧みな言葉で自分を宣伝したり、名声を得ようとしたりすることを戒めています。

SNSやホームページで医療情報を発信する現代にも、なかなか耳の痛い教えです。

5.一人一人を丁寧に診察する

診察した患者数を誇るのではなく、一回一回の診察を丁寧に行う。

症状をよく聞き、注意深く診察し、病状を考えることが重要であると説いています。

150年以上前から「数をこなすことより、診察の質が大切」と言われていたわけです。

6.治せない患者であっても見放さない

治癒が望めない患者であっても、医師の仕事が終わるわけではありません。

苦痛を和らげ、不安を減らし、最後まで患者を支える。

現在の緩和医療や終末期医療につながる考え方です。

医学には「治す」だけでなく、「支える」という役割があることを洪庵は説いていました。

7.患者を治療費で困窮させない

必要以上に高価な薬や治療を行い、患者や家族の生活を苦しくさせてはいけない。

医師は治療効果だけでなく、患者の経済的負担にも配慮すべきだという教えです。

現在でいう「医療経済」や「費用対効果」にも通じます。

医療費が高額化している現代だからこそ、非常に意味のある一節です。

8.地域から信頼される医師になる

医師は患者一人だけを見るのではなく、地域社会の一員でもあります。

地域から信用され、医療を通じて社会に貢献することが求められています。

開業医にとっては、今でもそのまま通用する心得でしょう。

9.同業の医師を尊重する

他の医師を悪く言って自分を良く見せるようなことをしてはいけない。

同業者を尊重し、お互いに学び合うべきだとしています。

現在でも、患者さんの前で前医を不用意に批判しないことは重要です。

医学にはさまざまな考え方があります。一つの治療法だけが絶対に正しいとは限りません。

10.毎日の診療を振り返り、記録する

その日に診察した患者について振り返り、治療経過を記録する。

うまくいった症例だけでなく、うまくいかなかった症例からも学ぶ。

これは現代のカルテ記載、症例検討、臨床研究そのものです。

医療は、日々の診療を記録して検証することによって進歩します。

11.他の医師に相談するときは患者の利益を優先する

難しい症例では、一人で抱え込まず他の医師に相談する。

その際、自分の意見に固執してはいけない。

現在でいうコンサルテーションやセカンドオピニオンに通じる考え方です。

「自分の診断が正しいこと」より、「患者にとって何が最善か」を優先するということです。

12.転医してきた患者でも前医を尊重する

他の医療機関から転院してきた患者について、前医の治療をむやみに批判してはいけない。

それまでの治療経過を尊重したうえで、自分の診療を行う。

現在でも重要な医師間の礼節です。

患者さんから「前の先生ではこう言われた」と聞いたからといって、事情を知らずに前医を否定するのは慎むべきでしょう。

150年以上前でも医師の悩みはあまり変わらない

『扶氏医戒之略』を読むと興味深いのは、

利益を優先しない
患者を差別しない
無理な治療をしない
丁寧に診察する
治らない患者も支える
患者の経済状況を考える
他の医師を悪く言わない
毎日の診療を振り返る
自分だけで判断せず相談する

といった問題が、現代の医療倫理とほとんど変わらないことです。

医学はこの150年間で大きく進歩しました。

X線もMRIも抗菌薬も人工関節もなかった時代から、医療技術は別世界といえるほど変わりました。

しかし、

「医師は何のために診療するのか」

という問いへの答えは、それほど変わっていないのかもしれません。

『扶氏医戒之略』は、単なる歴史資料というより、今の医師が読み返しても十分意味のある「医師の心得」だと思います。

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