
詩2
人生
人が生まれてから死ぬまでの生活。
地球に住む人は、人が創り上げてきた世界が真実であると思い生きている。
その世界で生活することが、人として生きる日常であると思い。
哺乳動物が出現し、人に進化した。
なぜ人にまで進化したのであろう。
この根本的な問いをする人は数えるほど。
何故現象世界は存在するのか。
あらゆる現象は、ただそのように現れて存在し、決められたとおりに動いている。
現象世界は変化し続ける。変化の究極にあるのは何か。
地球という天体。
地球は、宇宙空間に何の支えもなく浮かんでいる。
時速約1700km(赤道上)の速度で1日24時間で反時計回りに1回転(自転)しながら、時速約10万7000kmの速度で365日と約4分の1日で、太陽の周りを左回りに1周(公転)している。
太陽は銀河を周回し、地球もその太陽に連れられて、銀河を周回している。
地球よ。君はそこに浮かんで太陽の周りを決められたとおりに周回し、太陽に従って動きなさい。
地球誕生の時に、この地球の動きが決められたのである。
爾来、その通りに地球は動き続けている。
(私たちは、地球のこのような動きを知ることはなく、太陽や月や星々が動いているという感覚しかないのだが。)
何人も、解明することも説明することもできないのが現象世界。
人は現象世界の目撃者として、現象を認識する機能を持っている。
そのように現象世界を知るだけか。
人以外の生き物は現象世界であることを理解することができない。
人が現象世界を知ることは勿論だが、もっと深淵なることを知るために人として生まれたことは知られていない。
この現象世界を創造した主はどのような存在なのであろうか。
その存在を創造主と呼ぶ。
創造主は、宇宙を創造した。
インドの思想に、主は、「私は、多となって現れたい。」このように意思し、世界が誕生したとある。
さて、誕生した宇宙には数多の銀河が存在し、常に変化しながら動き、宇宙は膨張を続ける。
宇宙、その広さは計り知れない。
この宇宙という存在を維持し続けている何かがある。
それは宇宙全体に遍満し、動かないものと言える。
宇宙を身体に例えれば、その何かとは、全身くまなく張り巡らされた神経のようなものであり、覚知できない意識と呼ぶのが相当であろう。これを宇宙の意識と呼ぶことにする。
宇宙の意識は、主の本性である。
主の本性である宇宙の意識は宇宙全体に充満している。
この意識は、宇宙に存在する全ての姿型を存在たらしめ、変化する宇宙の姿を維持し続けている。
宇宙は、何を目的に出現したのであろうか。
宇宙の向かう先には何があるのだろう。
宇宙は、最終的に消滅する、と言われている。
宇宙は完全なるものから生じた完全なる存在そのものであることを宇宙自体が覚知した時、宇宙全体に至福が生じて宇宙全体を覆う。
至福は宇宙の全ての存在に平安をもたらし、宇宙の全ては至高の平安の中で寂静の内に消える。
そして、主は、非顕現の無限の世界に座すのである。
それを、人の姿をした私が見届けるため、私は人として現れている。
しかし、それも私にとっては人生のうちの一つのことに過ぎないが。
私の人生とは、真理の世界で生きること、これ以外に真の人生はないのだ。
地球に住む人にとって、人生とは何か。人は真理を理解することなく過ごす。その日常が続くだけの人生。そう言わざるを得ない地球の人々の今の有様。
地球は、人によって引き起こされた混乱、紛争、戦争で覆われ、人によって破壊された自然環境は、地球の進化を妨げている。
地球も生命体。今、地球はそこから恢復しようとしている。
2024.10.5
忍田裕昭
天穹
空が青色なのは何故か。
「太陽の光(紫、青、緑、黄、オレンジ、赤などの色の光)は、大気の中を進むときに、大気中の微粒子にぶつかって、いろいろな向きに散乱する。 そのとき、波長の短い光が より強く散乱されて向きが変えられ、波長の短い青色の光は、赤やオレンジの光より散らばりやすい性質(せいしつ)があるから、青い光が空いっぱいに広がって、青く見える。」これが空が青い自然現象の理由なのだ。
人は、「そうなんだ。」と、空の青色の現象の根拠が示されたことで理解したとするが、そのように現象した現象世界の様を認識しただけに過ぎないなのだ。
なぜ、地球の空の色を青にしたのか。誰がそうしたのか。そんなことを考える人は稀である。
もし、地球の空の色が黒かったら、真っ赤だったら、・・・。
ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンが、宇宙から地球を見たときの言葉、「地球は青かった。」
空は雲を抱く。さまざまな形の雲、空の高さでどのような形の雲になるか決まっているのも、実に不思議なのだ。
「羊雲よ。君はこの高さで浮かびなさい。」創造主の一念で決定し、それ以来、その高さに羊雲は在る。
人は、原初の因を知ることはできない。真実は実に明解なのに。全ての現象は創造主の創造によって起こった。
サナト クマーラ仙は言いました。「ナーラダよ! そなたが精通していない知識の分野はない。そなたはヴェーダ、ウパニシャッド、および他のシャーストラ〔論書や法典〕によって定められているあらゆる方法を知っている。しかし、その知識はどれもそなたに幸せをもたらしていない。その知識の一切は現象世界に関わるものであり、その性格ははかないものだ。永遠なるものの知識を得るまでは、平安を手に入れることはできない。」
(チャーンドギア ウパニッシャドより)
宇宙は、創造主によって創造された。全ての現象世界の現象の原因は、それによる意志によるものであり、現象する時に全てが決定されている。人はこのことを知るべきである。
2024.10.14
忍田裕昭
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バガヴァン シュリ サティア サイババの御講話
地球を回転軸の助けなく回転させているのは愛の力
星が落ちないよう各位置に保っているのは愛の力
海水が地上に氾濫しないように留めているのは愛の力
風を七大陸の上に吹かせているのは愛の力
この神聖な愛は、永遠であり、実に驚異的で、分割されることもない
愛こそは、人の命を支える息吹 (テルグ語の詩)
宇宙のすべての粒子や波を促す、潜在力や顕在力というものがあり、それらが協調して働いていれば、すべては順調です。しかし、それらのバランスが崩れて、均衡を失った状態で働くと、異常や災害が発生します。たとえば、太陽、月、地球、火、空気、水――これらはすべて、秩序を維持するためにバランスを保っている必要があります。環境が乱されたり、ゆがめられたりすると、危機が差し迫ります。水は汚染されていて、そのせいで人間は体と心の病気に苦しんでいます。科学とテクノロジーは、五大元素である空風火水地を征服していると鼻高々です。科学とテクノロジーは、五大元素を地球と地球に住むすべてのものの平和と繁栄のための手段として扱うことをせず、自分たちの気まぐれに従順に従うおもちゃであるかのように扱っています。五大元素を分解して利用しようとする科学とテクノロジーの試みは、致命的な汚染や干ばつなどの自然災害、さらには、地震さえも招いています。リグ ヴェーダが指示しているように、五大元素は崇拝されて敬虔に扱われるべきものです。謙虚に五大元素を礼拝しなさい。そうすれば、五大元素はあなたに有り余るほどのパワーという褒美を与えるでしょう。今、そうした畏敬の念は、搾取を求める貪欲の中で消えてしまっています。
(1982年10月20日ダシャラー祭)
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科学技術の進歩の結果として人間性が衰退し、世界は楽しむためにあると人は考えています。そのため、世界に脅威を引き起こす形で自然の力が使われています。世界は単なる楽しみのために創造されたのではありません。自然の資源を乱用し、自分の根本的な人間性を忘れて、人は創造の目的に反しています。多くの天災は完全に人間の振る舞いのせいです。地震、火山の噴火、戦争、洪水、飢饉(ききん)といった災難は、自然が深刻な異常をきたしている結果です。こうした異常は、もとをたどれば人間の行いが原因です。人間は人類と自然界との切っても切れない関係に気づいていません。人体においては、目や耳や口といったあらゆる器官は互いに完全に結びついています。人間にとってこうした器官が重要であるのと同じように、社会にとって個人は社会有機体の手足として等しく重要です。個人は人間社会の一部です。人類は自然の一部です。自然は神の手足です。人間はこうした相互関係に気づいていません。(「神は遍在」より)
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バガヴァン シュリ サティア サイババの御講話
なぜ蝙蝠(こうもり)は頭を下にして木の枝からぶら下がっているのでしょう? この不思議な現象を誰も説明することはできません。この世の中で私たちが目にする、こうした不思議で謎に満ちたことは誰が起こしているのでしょう? 人が何を、いつ、どこで、どのようにするかはすべてあらかじめ定められているのです。人はそれに関してどうすることもできません。すべての出来事は神の意志と神の命令の下に起こります。神の命令に絶対服従することは人間にとって最も重要な義務です。目に見えることであれ、認識できないことであれ、この世で起こるすべてのことは神の意志によって起こります。
残念なことに、今日では誰も神の創造の神秘を理解しようと努力する者はいません。科学者たちは創造の神秘を解明したと自慢しています。しかし、彼らはこの驚くべき現象の裏に潜む真理を本当には体験していません。この宇宙で起こるすべての出来事は一つひとつが神秘に満ちています。もし、あなた方が注意深く観察するなら、目に見えない神の手による御業を理解することができるでしょう。
2004年10月19日
ダシャラー祭期間中の御講話
宇宙と人間
なぜ、どんな人でも自惚(うぬぼ)れてしまうのでしょう? この広大な宇宙の中で、あなたはどれほどのものですか? 無限に広がる大空の中では、太陽も一つの小さな星にすぎません。地球は小さな惑星で、アジアはその地球のほんの一部分です。バーラタはそのアジアの小さな国であり、アナンタプルはバーラタの一つの県にすぎません。あなた方はそのアナンタプルにあるプラシャーンティ ニラヤムの中の小さな部屋の中にいます。宇宙と比べたら、どんな人でも自分を自慢に思う理由などあるでしょうか? そのような慢心は、無知から生まれる錯覚の結果であると言えます。
人間の状態の真の性質について深く調べてみるならば、人間は永遠ではなく無常であるといった、さまざまな側面に気づくでしょう。あまたの星が存在する広い宇宙の中で、神がわざわざ人の姿をとって現れる理由は何なのでしょう? その背後にある真理をわかりたいと思う人は、ほんのわずかしかいません。その真理を理解するには、最高の英知が必要です。
現代世界では、宇宙に関する知識は三つのカテゴリーに分類されます。
1 日常生活における観点からの、知覚に基づいた事実に関する知識があります。ノンフィクションを真実として扱い、フィクションを真実でないものとして扱うのは、実際的な知識です。
2 第二のカテゴリーには、現象界を実在と見なし、目に見えないもの、聞こえないものすべてを、非実在、あるいは、存在していないものとして扱う人たちがいます。彼らは自然を実在と考え、神は存在していないものと考えます。
3 第三のカテゴリーは、一つのものともう一つのものを分け隔てせず、全宇宙は神の投影であり、神が浸透しているという見解を持っている人々から成ります。これが霊的知識です。
疑いなく、現象界の知識は必要です。しかし、人はその上を行って、永遠不変の実在を知るべきです。
(1969年6月26日サイ大学の学生への連続講話⑨より)