初めてのインド体験記

インド国アンドラプラディッシュ州プッタパルティ村にあるバガヴァン・シュリ・サティア・サイババのアシュラム「プラシャンティニラヤム」を訪れたのは、1995年7月のことでした。プラシャンティニラヤムで行われるグルプールニマ祭というお祭りに参加した時で、日程は、1995年7月5日から同月15日まででした。この時のグルプールニマ祭には、日本から約360人の男女が参加したのです。インド航空のジェット機を1台チャーターして成田空港からインド国バンガロール市にあるバンガロール空港まで行き、バンガロール市からプラシャンティニラヤムまではバスで行くという旅程で、帰路はその逆のコースでした。

私が、バガヴァン・シュリ・サティア・サイババを知ったのは、1993年7月、ある講演会に行った時のことでした。その時の講話の中で、インドにサイババという人がいて、サイババは、真理を説き、愛によって人を感化し、人間として生きるべき道を教えている。そして、ビブーティという神聖灰を手から出し、指輪やネックレス等を物質化することができる。世界中から多くの人がサイババの元を訪れているということを聞いたのです。

私は、この講話を聞いたとき、直観的にサイババの言葉と行為は真実であると思ったのです。この講演会の後、サイババに関係する書物を沢山読みました。それらの書物に書かれていたことからしても、やはり私の直観は正しかったのだと思い、私はサイババの元を訪れてみたいと思ったのです。

私は、1989年8月、交通事故で頸髄損傷という怪我をして、身体障害者となったのです。この事故の時のことをお話ししますと、転倒した直後から首から下の感覚が全くなってしまったのです。首から下の感覚がないということは、首から下の手も足も胴体もどこにあるのか分からない、首から下の身体がどこかに行ってしまっていて、頭だけが路上に転がっているという状態。

その内、呼吸がおかしな感じ(深く呼吸できない状態)になっていることに気付いたのです。私の肉体は、非常事態を私に告げていたのです。首から下の感覚がなく、呼吸の状態もおかしくなっており、私はその時「死ぬかもしれない。」と思ったのです。それまでは言葉だけであった「死」というものが、今現実のものとなってもおかしくない状況にあることが分かったのです。私は人生で初めて「死ぬかもしれない。」と思いました。そして次に頭をよぎったのは「死んだらどうなるのだろう。どこに行くのだろう。」ということでした。

「死」とは、肉体がどのようなどのような状態になっているかを私なりに分かっていましたが、私自身がそのようになるかもしれない状況に直面している時に、それまで思っていた「死」は言葉でしかなかったのです。私が知っていたのは肉体の状態がそのようである「死」という言葉だけであり、実際の「死」がどのような事であるのか私の記憶の中に「死」についての明確な答えはなかったのです。私は、本当の意味での「死」ということについて知らないということに気付いたのですが、死ぬかもしれないというような状況にある時に、そのようなことに気付いてもどうにもならないことであり、本当に参ったと思ったのです。そして私は、私のそれまでの人生で学んできたこと、それまでの経験から知っていたことは、私以外の事ばかりであり、私自身の事については何も知らなかったということに気付いたのです。私はその状況下において、「私」は誰なのか、「私」はどのような存在であるのかを知ることこそ、人間という肉体を持って生まれてきた存在の真の目的ではないかということを理解したのです。

私は、救急車で病院に運ばれ、約8ヶ月間の入院と、その後約3ヶ月間のリハビリ通院をした後社会に復帰できたのですが、この頸髄損傷によって首から下の身体の筋力低下、運動機能障害、感覚障害などを伴う身体障害者になってしまったのです。

私は、社会復帰した後、多くの書物を読み、それなりに「真実の私」についての理解が深まっておりましたが、それは知識としての理解でしかなかったのです。

私は、サイババを知った後は、サイババこそ私の知り得たい真理を教えて下さる師であると確信し、サイババの教えなどについていろいろと学び、その後2年間の時を経てプラシャンティニラヤムを訪れる事になったのです。

私は、不自由な身体になってから約11時間もの長い間飛行機に乗るのは初めてでしたので、身体の機能が低下している上、全身の筋力が低下しているため、腰への負担や、同じような姿勢を続けると筋肉が硬直するなどのことがありましたから、長時間椅子に座っていることにはそれなりの覚悟はしていたのですが、やはり痛み、痺れ、痙攣などの身体の状態には我慢の連続という機中になったのです。

7月5日夜バンガロール空港に到着し、入国手続きを済ませ、その夜はバンガロール市内のホテルで1泊しました。翌6日早朝、バンガロール市から「プラシャンティニラヤム」に向けてバスで出発したのです。バスで約4時間の旅でしたが、乗車したバスは日本では廃車になっていてもおかしくないようなバスで、当時道路は舗装されているとは言いがたいような状態で、路面のでこぼこの振動が直に身体に伝わり、身体はあちこち悲鳴をあげており、このバスの旅も我慢の旅となったのです。同日午後「プラシャンティニラヤム」に到着しましたが、私にとって身体の苦痛を伴う長い旅であったこともあり、到着したと思った時の感激は一入でした。

「プラシャンティニラヤム」は、とても大きなアシュラムで、数十棟の宿泊棟が建ち並び、多くの国から大勢の老若男女がやって来ていました。日本人のグループの宿泊棟は真新しい建物で、ババが、日本人のグループに使わせるということで、6日の日に間に合うようにとその前日に竣工させた建物であるということを聞きました。また、プラシャンティニラヤムには、多くの日本人が滞在して生活している事がわかりました。

「プラシャンティニラヤム」での生活が始まったのです。滞在中は日常的に、時々断水したり、停電することがありましたが、生活自体は、朝と午後のダルシャンに出る事、食事をとる事、部屋で休憩する事、時々散歩をする事というシンプルな生活でしたから、1日の時間はゆったりと流れていて、断水や停電は特に気になる事はありませんでした。私たちが生活する宿泊棟のホールの壁には、入口から見て正面と右側の2か所にババの写真が飾ってあり、それぞれの写真には花環が架けられていました。その2か所の写真に架かっていた花環が大きくなって写真の下の方まで垂れ下がっていることが分かったのです。花環が大きくなっていることに皆が気付いて話題になったのですが、花環はその後も大きくなり続け、ついには床上を這うまでの大きさになったのです。花環は普通の綿と思われる白っぽい太い糸に白色とオレンジ色の花を通して作ってあるもので、特別な物で作ったというふうには見えず、普通の花環という感じでしたが、その花環が時間の経過とともに大きくなっていくことは理解を超えた現象であり、結局、何故そうなるかは分からないのでした。床に這うようになった花環は新しいものに架け替えられたのですが、架け替えられた花環も時間の経過とともに大きくなり、大きくなるとまた新しい花輪に架け替えられるという、不可思議なことが滞在中続いたのです。

帰国前日(13日)の朝のダルシャンの時に、日本人とイタリア人のグループがババに呼ばれたのです。日本人とイタリア人は、全員がダルシャン会場の中にあるマンディール (寺院)の中に入りました。男女合わせて四百名を超える人がマンディールに入り、正面に向かって男性が右側、女性が左側に座ったのですが、その数からして男女間の通路以外はぎっしりと人で埋め尽くされていて、人と人の間は大変窮屈な状態でした。私は、真中より少し後ろの壁際の椅子に座ったのです。

ババは、男女間の通路を歩きながら指輪を1個物質化してある女性にプレゼントした後、別の女性がしていた指輪を別の形の指輪にしてその女性に渡されたのです。通路を正面中央まで戻ったババは、そこから、座っている男性の間をかき分けて、走るときのような前屈みの姿勢で私のほうに向かって来たのです。

私の方に向かって来てはいましたが、ババがまさか私のところに来るとは思ってもいませんでした。そのような思いを持っていなかった私にとって、それは突然の出来事でした。ババは、座っている男性の間をかき分けて来て私の前に立ち止まったのです。その瞬間、私の目の前は薄暗い空間になり、ババの姿を見る事はできませんでした。ババは、私に手を広げるようにと言い、私は言われるままに両手を開いたのです。

両手を開きますと、薄暗い空間の私の目の上あたりの空間に一点の光が出現し、その光が私の両手の平を照らし、その光の中を通ってその光に照らされた二すじのビブーティが逆V字形になって私の両手の平の中央に降ってきたのです。その時、私はババの手も姿も見ることはありませんでした。私は、空間の一点にある光からその光に照らされた二すじのビブーティが逆V字形になって両の手の平に降り積もるのを見て、その光景の美しさに瞬時見入ったのです。ビブーティは両手の平の中央に小さな山形になって降り積もり、その後光が消えたのです。ビブーティを私の手の平に降らせた後、ババは両手で私の両手を包み込み何度もさすった後、私の頭や背中をその手で何度も撫でてくれたのです。

私はその時もババの姿を見ることはなく、連続して起きていることを、ただそのように感じながらその間じっとしていたのです。そして、ババが私の前から立ち去るような気配を感じた私は「ババ、首も!」と心の中で言ったのです。咄嗟に思い浮かんだ言葉でしたが、ババは、私が心の中で言ったことが分かり、私の首を右手で撫でてくれたのです。それが終わると、ババは私の前から立ち去ったのですが、ババが目前から立ち去るまでの間、私の回りは薄暗い空間になっていて、その間、ババの姿を見る事はありませんでした。

ババが私の前から立ち去った後、私は自分に起こった事を確認したのです。両手はピブーティで白くなり、着ていた服にもそこここにビブーティが付いているのが分かりました。ビブーティは乳白色をしていて、匂いは特に感じませんでした。その後私がマンディールから出るころにはビブーティは両手に僅かにその白さが残っているだけでそのほとんどは消えてなくなっていました。

正面に戻ったババは、今度は一人一人の女性に手渡しでサリーをプレゼントし、男性には、これも一人一人にビニールの小袋に入ったビブーティを手渡しでプレゼントしてくれたのです。足の踏み場もないような状態で座っている四百名以上の全員に手渡しながら歩くという作業は大変な労力であったに違いありません。私たちのほぼ全員が、肉体であるババとは初対面であったように思いますが、ババは、私たち一人一人に厚いもてなしをして下さったのだと私は思いました。最後に全員で日本語のバジャンを歌ってマンディールを後にしたのです。

7月14日朝、帰国のためプラシャンティニラヤムを出発しました。帰国の機内は、往路よりも身体が少し楽な感じがしていましたが、旅が終わりに近付いているという安堵感からそのように感じたのかも知れません。7月15日朝、飛行機はほぼ予定通り成田空港に到着し、「プラシャンティニラヤム」への初めての旅が終わりへと近付いたのです。

帰国後、友人に出した手紙に、「私がババの元を訪れた目的は、「私」がどのような存在であるかを知るため、私自身を見つめるためと、ババが何をなさっているのかを見に行くために行ったのです。」と書いていますが、私の不自由な身体を治療してほしいとか、ババが物質化する物がほしいというような気持ちは私には全くなく、ババにインタビューをしたいという気持ちもありませんでした。私は、ただただババが何をなさっているのかを見るため知るために行ったのです。滞在中、確かに不可思議な事を直接体験したという事はありましたが、その事はその事として、「プラシャンティニラヤム」という所は、私自身を見つめる上でとても素晴らしい場所であったということは言うまでもありません。また、ババは、ババご自身が仰っているとおりであり、私の思っていたとおりの存在であることも分かったのです。

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