求めるもの

精神(こころ)は、悲嘆、苦悩、不安などで葛藤や混乱することが、しばしばあります。

そのような時、私たちは精神(こころ)の平安を求めることは言うまでもありません。

私が悲嘆にくれれば、私は悲嘆から逃れたいと思います。

悲嘆は、喪失感、孤独感、空虚感からなり、過去の記憶への執着によって生じた思いと感情であると言えます。

悲嘆の原因は、経験の記憶そのものにあるため、逃避を試みても、過去の記憶が消えない限り、悲嘆から逃れることはできません。

悲嘆にくれている私を見つめたとき、そこには、私と悲嘆という二元が存在しています。
悲嘆とそこから逃避しようとする私という二元性が存在する限り悲嘆は終わりません。

私たちは平安を求めながら、逃避や闘争といった方法を用いて、平安とは逆の方向に自らを貶めます。

悲嘆は終わらせて、私は精神(こころ)の平安を得たいのです。

悲嘆をあるがままにみることによって、悲嘆を終わらせることができます。

悲嘆をただただ凝視することによってのみ、悲嘆と私という二元は消え、悲嘆の全構造を知ることができるのです。

その全構造を知ったとき、悲嘆のありのままの姿を受け入れるのです。

さて、私たちが求めるものは、精神(こころ)の平安であることは疑いのないことです。

私たちは、外部から得たものでは、精神(こころ)の永続する平安はあり得ないことを経験から知っています。しかし、外部に求めることによって一時的にせよ安定を得てきたことを経験上知っているため、記憶に従って同じことを繰り返しているのです。
外部から得られるもの、物質的豊かさによってもたらされるもの、つまり、肉体的感覚的快適さという精神的な安定が不要ということではありません。

しかし、外部世界がもたらすものは、一時的なものでしかないということです。

永続する平安と、外部から得られる精神的安定とはイコールということではないということであり、そこには本質的な相違があるということです。

精神(こころ)の永続する平安こそ、私たちが望むべき最高に豊かなものなのです。

平安は私の内に本来あるものです。しかし、私たちは相対的な世界に生き、二元的な思いをもっているため、その本来ある平安に気付いていないのです。相対的、二元的であれば、平安はありません。

平安と出会う最良の方法は、相対的世界で体験する吉凶禍福を等しく見、思考の二元性をあるがままにみて理解することなのです。

そうすることによって、精神(こころ)は静寂になり自由になるのです。
そして、精神(こころ)が静寂で自由である時、本来ある平安という実相に出会うのです。

(バガヴァン シュリ サティア サイババの御言葉)
人は平安を求めます。しかし、平安と幸福の源は自らの内にあるのにもかかわらず、人はまるで蜃気楼を追うように外側の世界にそれらを求めます。せわしない活動、絶え間ない心配、限りない欲望のために、人は心の平安を失い、不満や苦しみの餌食になっています。平安はまず、自らの内側で育まれなければなりません。そして、その平安は家庭に広げられ、家庭から村に広がっていくべきです。つまり、平安はまず個人から始まり、社会全体に広がっていくのです。・・・・・すべての美徳の中で、愛は最も優れています。愛が育まれると、他のすべての美徳がそこから湧き出てきます。あらゆる形式の霊性修養において、愛が最初の場所を占めます。愛は人間としての最高の証です。愛は神です。愛の中に生きなさい。愛をもって一日を始め、愛で一日を満たし、愛で一日を終えなさい。人は傲慢さを放棄して、奉仕に従事しなければなりません。今日の社会の退廃は神を忘れた結果です。神を思い出すことによって、私たちの人生は平安と幸福で満たされるでしょう。
『1989年3月23日、マドラス(現在のチェンナイ)の「アボッツベリー」での集会にて、アクティブワーカー及び帰依者に対する御講話(石井 真 訳)』

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