バガヴァン シュリ サティア サイババの「私は誰か?」ということに関する御言葉(抜粋)集

議論に巻き込まれることなく自らの霊性の実践に注力しなさい
目標を達成する決意は必ず成功を収めます。究極的な成功への信仰を育みなさい。絶望したり不平を言ったり疑ったりしてはなりません。これが私から皆さんへのアドバイスです。成功はあなたの生まれながらの権利であり、遅かれ早かれそれを手に入れなければなりません。


自分の目標と理想に関心を持ちなさい
何よりも、疑いの余地を与えないようにしなさい。私について、私に関するあれこれの点について議論する必要がどこにあるのでしょうか?
あなたが議論し、是非を問うババとは一体どのような存在なのでしょうか?私が誰であるかはあなたにとってどのような意味がありますか?あなたは、自らの目標、理想、経験、努力に関心を置くべきなのではありませんか?
であれば、なぜ私の本性、私の起源、私の神秘、私の奇跡について心配する必要があるのでしょうか?基本的なものは手であり、それが持つ杯は二次的なものです。支えられるものは、支えるもの、すなわち、基盤である実在、純粋な存在ほど重要ではありません。自らの本質である実在に到達できないのであれば、なぜ神性の本質を議論することに時間を浪費するのですか?実際のところ、自分自身、自らの本質的な真理を理解した時にのみ、私を理解することができるのです。
粗雑なものは粗雑なものしか理解できません。その知識の範疇は物質的な次元に限定されます。魚は水から出て大気中の空気を吸おうとするなら死んでしまいます。子供たちは黒板とチョーク、ノートと鉛筆の助けを借りて初めてアルファベットを学ぶことができます。霊的な志を持つ人々は、霊性の初歩を通過する際にはシンボル、イメージ、儀式が必要です。自らを名前のないものや姿のないものに変容させるまでは、名前や姿を捨てることはできません。それは、魚であるうちは水を必要とし、水棲の性質を捨てて陸生動物に変化しない限り大気中に上がることができないように、名前も姿もない非顕現の存在が、自らの意志によって、名前や姿をとって人類の前に顕現する理由です。物質的次元に降臨することで、人は名前と姿を伴った神を認知し、愛し、尊敬し、崇拝し、その教えを聞いて従うことが出来るのです。それは全て、人類の目的が達成されるためなのです。
(1962年3月4日マハーシヴァラトリーの御講話より:石井 真 訳)


人間には、自分と自分の体や五感や心や知性とを分ける能力が授けられています。人間は、これは私の目、私の耳、私の足、私の手、私の心、私の理性、等々と言います。人間は、自分はそれら一切とは別のものであり、自分はそれらを使う者、所有者であり、主人だということを、意識の奥底で知っているのです。自分が体とは別のものであると思っている動物はいません。なぜなら、動物にとって、自分は体だからです。動物は、自分が肉体という枠の中に居住しているものだということを知りません。人間は、黙想というシンプルな行によって、肉体という枠は非実在であり一時的なものであるということを見出すことができます。ひとたび人間が、体と体に付加する物に過度に執着することなく、悲喜、善悪、苦楽といったものの引力から解放されるなら、平等観、忍耐力、揺らぐことのない平静がしっかりと身につきます。その時、人間は、世界は神の中で同じ一族であるということ、すべては喜びであり、愛であり、祝福であることを、見出します。自分は目に見えるこの世界の一切であること、この多種多様な顕現の一切は神の意志による幻想であり、それが自分の実体なのだということを悟ります。宇宙の果てまで覆い尽くすほどの、この個我の拡大は、人間の最高の飛躍です。
(1966年12月18日の御講話より)


「アルジュナよ! 一切の中に私を見て、私の中に一切を見る者は、私にとって愛おしい。たとえどんな生き方をしていようとも」と、クリシュナは述べました。「すべての生き物を通して私を礼拝する者は、私に融合する!」と、ギーターチャールヤ〔ギータ一の師、クリシュナ神〕は続け、さらに言いました。「瞑想(ディヤーナ)には制限があるが、それは瞑想によってもたらされる利益のことではなく、スィッディ〔力、成就〕のことである。瞑想は人に至高の智慧、グニャーナを授ける」グニャーナは単なる頭の体操ではありません。グニャーナは想像をたくましくすることでもありません。心の作り事でもありません。グニャーナはアートマ〔真我〕の実体の絶えざる体験です。「百万人に1人だけがアートマを悟ろうと努力する。そのうちの千人に1人だけがアートマを悟る過程を理解する。それを理解した数千人のうちの1人だけが私に到達する。真我顕現を成し遂げて私に融合した者は、実に少ない」と、クリシュナはアルジュナに言いました。
(1979年第7回夏期講習における御講話より)


バガヴァッド・ギーター第7章(至髙者に関する)知識、識別の道で、クリシュナがアルジュナに次のように語っています。 「私は五感(視、聴、嗅、味、触)を通して獲得できる知識と、悟りを通してのみ体得できる智識、つまりこれ以外に知るべきものは何一つないという完全な智識を君に与えよう。」「おそらく数千人の中の一人か二人かが、真の智識を求めて努力するだろうが、そうした稀な求道者の中でも、私を真に知るに至る者は、たった一人くらいのものであろう。」


瞑想において、心(マナス、マインド)、理智(ブッディ)、さまざまな感覚器官(インドリヤ)は、自制という方法によって超越されます。あらゆる二元性、二分、違い、相関性は、瞑想の超意識の状態の中で消え失せます。「瞑想」と「一元化をもたらす至高神についての知識」は、同義語です。瞑想は、ディヴィヤダルシャナ〔神聖なダルシャン〕であり、神のヴィジョンであり、神への道です。瞑想は、サット・チット・アーナンダ、すなわち、実在・意識・至福が統合された実体へと導きます。瞑想は、永遠に続く至福(ニッティヤーナンダ)をかなえ、真我の至福(アートマーナンダ)を授けます。瞑想は、人が至髙の至福(パラマーナンダ)と不ニー元の至福(アドワイターナンダ)に達することを助けます。
(1979年第7回夏期講習における御講話より)


人々は地上と宇宙での達成や業績を誇りつつ、自分たちの手から平和が逃げていったといって自らの運命を嘆き悲しんでいます。人は今、星を数えること、月を歩くことができます。しかし、人は自分自身に関する知識を持っていません。それでどうやって他の人との親しい関係の喜びを味わうことができるでしょうか? いつ人は成就という目標を達成したと断言することができるのでしょうか? 成就の至福は物質世界では手に入りません。それは目を内側に向けることで勝ち得なければなりません。人は今、束縛された状態にありますが、束縛されていることを知りません。そして、あまりにも深く無知に沈んでいるために、自分を解放する努力もしていません。妻子、親類縁者、家や土地、財産や所有物は束縛だと言う人もいます。人はこれらを捨てて、これらから解放されることができます。それは比較的簡単なプロセスです。というのも、これらはそれほどあなたを縛るものではないからです。最もきつい束縛は、「自分の実体を知らないこと」です。自分は誰なのかを知らない 。 これが最大の障害です。これが克服されるまで、悲しみは避けられません。なぜなら、人間はこの無知によって、タマス〔鈍性〕、非真、そして、死と結びついているからです。自分に関する知識がないと、人は、物質世界は真実で永続的であるという信念を持ち、本当に真実で本当に永遠であるものを無視するようになります。自分とは何ですか? ここでも、人は間違って誤った信念を抱いています。人は、自分は体であると信じており、体の構成要素や特徴を連ねて喜んでいます。人は、アートマ〔真我〕、すなわち、崇高で、穏やかで常に新鮮で、自分自身である神の本質を無視しています。それは拡大したい、光を照らしたいという、常に存在する衝動です。収縮したい、抑えたいという衝動は、動物の特徴です。アートマを否定し、その任務を無視し、その存在を無視していること ―― これが悲しみの根源です。では、死についてです。アートマに誕生はありません。ですから、死もありません。アートマはずっと存在し続けていて、決して消滅することはありません。アートマには始まりも終わりもありません。アートマは死にません。アートマを殺すことはできませんし、アートマに自動力はないと言うこともできません。アートマは万物それぞれの内なる照覧者です。アートマを認識するようになった瞬間に、人は悲しみに捕らわれている束縛の状態から解放されます。物質世界は確かなものだという考えは忘れなさい。物質世界はせいぜい試練として差し出される心像です。だからこそ、聖賢たちの祈りは、「アサトー マー サッドガマヤ(私を非真から真実へと導き給え)、タマソー マー ジョーティル ガマヤ(私を暗闇から光へと導き給え)、ムルッティヨールマー アムルタム ガマヤ(私を死から不死へと導き給え)」というものだったのです。人としての生の真の目的は、ブラフマンが見えるようになり、ブラフマンに融合することです。古代の人々は、目的地への道には3つの段階があると明言しました。それは、カルマ ジグニャーサ(行いを通して霊的知識を追求すること)、ダルマ ジグニャーサ(美徳を通して霊的知識を追求すること)、ブラフマ ジグニャーサ(神性を通して霊的知識を追求すること)です。この3つのステップは、何世紀にもわたって学者たちによって区別され、説明され、分析されてきました。人は、カルマ(行い)を通じて道徳(ダルマ)の人となり、道徳の基盤(ブラフマン)を追求し始めます。人は、美徳と道徳はアーナンダ〔至福〕に付加される、そして、すべてのアーナンダは至る所でブラフマンから流れてくる、ということを発見します。そして、この認識に欠けた行いは不毛であり、束縛するものであるということがわかります。ウパニシャッドの明言である「カールニャム パラマム タパハ」は、この意識に基づいています。その意味は、「すべての存在への思いやりが真の霊的規律である」というものです。人間は創造物の王です。人間は生類の中で最高のものです。ですから、人間は大きな責任を負っているのです。人間は、他の生き物を愛し、それらに奉仕し、それらを救わなければなりません。なぜなら、他の生き物は人間の親類縁者であり、それらも核として神の原理を持っているからです。ところが人間は、自己中心、慢心、妬み、怒りを募らせて表し、それによって動物より悪くなりつつあります。人間は、哀れみ、慈悲の心、同情心、不屈の精神、喜びが授けられているのに、これらの美徳を捨て去って、行いと振る舞いにおいて非人間的になっています。虎が牛小屋に入り込んでいくのを想像してみなさい! 悪い傾向は虎のようなものであり、サーットウィカ(純性)の美徳を破壊します。ひとたびこの災難の程度を認識したなら、あなたはこうした野生の侵入者を倒すことを決意しなければなりません。
(1979年8月14日クリシュナ神降誕祭の御講話より)


現代人は、自然と宇宙に関するすべてを知っていると思っています。ですが、もし人間が自分自身を知らないなら、その知識の一切は何の役に立ちますか?自分自身を理解したとき、初めて外の世界についての真実を知ることができるようになるのです。人の内なる実在を、外の世界を探索することによって知ることはできません。目を内に向け、自分の本質をなす神性を悟るとき、人は万物への平等心を手に入れます。その、一つであるという気持ちによって、人は理解を超える至福を体験するでしょう。
(1983年ローマで開催された国際シンポジウムへのババのメッセージより)


どんな人でも、まず「自分は誰なのか?」という疑問の答えを探し求めるべきです。自分が何者かもわからずに、他人についてすべてを知ろうとしても何の役に立つでしょうか? 生まれたとき、あなたがたは「コーハム」(私はだれか?)と叫びました。同じ疑問を唇に浮かべたまま死ぬようなことがあってはなりません。あなたが死ぬときには、喜びに満たされて「ソーハム」(私はそれだ、私は神だ)と断言できるようでなければいけません。そうなって初めて、あなたは自分が人間として生まれたことを正当化でき、人間生活の目的を果たしたという満足感に浸ることができるでしょう。・・・・・すべての人は身体につけられた一時的で人工的な名前に真実の自己を同一化しています。あなたがたの身体に付けられた名前はラーマイアー、クリシュナイアー、セーナイアーといろいろありますが、自分自身をそれだと思い込んでいては、どれほど長く霊性修行に励んでも、少しも進歩しないでしょう。あなたの身体に与えられた名前どおりに、あなたはいつまでも元のままでしょう。「ソーハム」はあなたが持って生まれた名前です。これだけがあなたの本来の永久の名前です。それがまことにあなたの「実在」であり「真実」です。それを実現してサット・チット・アーナンダを体験しなさい。
(1990年夏期講習における御講話より)

不二一元論は経験することができるのみ
不二一元は意識の状態であり、その状態は経験することしかできず、言葉で説明することはできません。この点において、不二一元論者は口のきけない人のようなもので、おいしい夕食を味わっても、食べた料理の味を説明することができません。何かの存在を証明する証拠には2種類あります。プラティヤクシャム(直接的な知覚)とパロークシャム(間接的な証拠)です。不二一元の意識から得られる至福は言葉では言い表せないものです。それは経験することしかできず、記述したり説明したりすることはできません。このように、もし間接的な証拠が存在しなかったら、直接的な知覚は問題外となります。残念なことに、現代人は直接的な知覚だけに価値を置き、間接的な証拠を軽視しています。これは正しい態度ではありません。
たとえば、氷の塊を見たとします。氷の塊は固体のように見えますが、すべて水でできており、水は液体です。つまり、間接的にその存在が推測される水が、直接的な知覚によって見える固体の氷の塊の主成分になっているのです。このように、間接的なものが直接的に知覚できるものの主成分である、ということに気づくことができます。
同様に、この目に見える現象世界に対して、神は目に見えないものです。この真理を認識しないまま、人々は不二一元論のヴェーダーンタの教義の真理を認識せずに、二元論のヴェーダの概念に従っています。
人間は浮世のことに没頭して人生を過ごしています。シャンカラは、人類にもっと重要な、内へと向かう道に目を向けさせるために人生を捧げました。シャンカラの師、ガウダパーダは、シャンカラにあらゆる助けと励ましを与えました。年齢が若かったにもかかわらず、シャンカラは大きな決意と信念の強さを見せました。シャンカラは、16歳で不二一元論の教義の妥当性について、カースィーの由緒あるパンディト〔学僧〕を納得させることができました。
(1996年9月8日シャンカラに関する御講話より)

至福の探求
サット・チット・アーナンダ(絶対実在・純粋意識・至福、サッチダーナンダ)は全宇宙に浸透しています。人間だけでなく、蟻(あり)をはじめ、すべての生き物が、その至福を求めています。生きとし生けるものにとって、この至福は命の息吹です。
聖典はこの至福の問題をさまざまに取り扱っています。聖典はサット・チット・アーナンダを根本原理として宣言しています。
現実としての宇宙の存在は、多くの人によって確信されています。しかし、盲人は宇宙の存在を知りません。にもかかわらず、他の人々が世界について話すことを聞くことで、盲人も宇宙の存在を信じています。盲人は自分個人の体験によって宇宙の存在を認識しているのではありません。
昨今の人々は、ヴェーダやプラーナや他の諸聖典の所説を聞いて、実在としてのサット・チット・アーナンダについて語ります。そのような人たちは、サット・チット・アーナンダの個人的な体験は持ち合わせていません。サット・チット・アーナンダの概念を解説する学者たちでさえ、ただ書物から学んだことを語っているだけで、その至福の直接的な体験は持ち合わせていません。
人は皆、サット・チット・アーナンダとは何であるかを知ろうと努めるべきです。そうして初めて、人は自らの真我を悟るのです。人は、現象世界によってもたらされる迷妄ゆえに、サット・チット・アーナンダを自分とは別のものと見なしています。この感情は、体への執着から生じます。すべての人が「私は誰か?」を見出すべきです。この問いの答えを発見すれば、サット・チット・アーナンダが何であるかを理解する必要はなくなるでしょう。
自分を体や肉体的な特徴と同一視している限り、人はサット・チット・アーナンダを求め続けるでしょう。「私」の本性を発見すれば、他には何も求めなくなります。そして、自分はサット・チット・アーナンダの具現であることを悟るでしょう。
万人はサット・チット・アーナンダの具現です。サットは神、チットはジーヴァ(個我)です。サットとチットの一体化がアーナンダ(至福)です。
(1998年2月25日マハーシヴァラートリーの御講話より)


不滅性こそが真の解脱(ニルヴァーナ)です。その第一歩が正見(サムヤク・ドリシュティ)です。目に入るものすべてを、神と見なしなさい。あなたの見方は愛に満ちさせなさい。愛に満ちた見方は真の人間的特性です。すべては一つです。誰に対しても同じ心でありなさい。正見はすべてのものの内にある神性に気付かせてくれます。ヴェーダはこの原理に基づき、次のように述べています。「エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ(真理は一つ、学者たちはそれを多くの名で呼ぶ)」。真理という目で世界を見なさい。すべては一つです。すべては本質的には神なのです。一体性に到達するために、多様性を捨て去りなさい。ヴェーダンタ(ウパニシャッド)は「多様性に内在している一なるものとはアートマ原理である」と宣言しています。電球はたくさんありますが、電球の中を流れている電流は同じです。同じように、アートマ原理はすべての中に存在しているのです。この一体性の原理を理解できないことが、人間の無知の原因です。真の人間性は、多様性の中の一体性を認識することにあります。
(2001年5月7日の御講話より)


人間としての誕生は、数々の生まれ変わりを通じた業績の中の最高のものとして、生き物に授けられるものです。人生は非常に不安定で、常に死がつきまとい、いつ死に奪い去られるか、誰も知りません。人生の正しい目標を選び、それを達成するための最高の手段を決めることを遅らせてはなりません。外の世界とその魅力に向けていた関心を、意識の内的領域へと向けなさい。この内に向かう旅は、歓喜という貴重な宝物によって十分に報われることでしょう。海が岸辺に打ち上げるものは、貝殻や泡だけです。しかし、敢然として海の深みに潜る人々は、サンゴや真珠を手に入れることができるでしょう。これこそが、あなたの本当の使命であるべきです。もしこれを逃してしまえば、あなたは、内なる喜びの泉についてなんの知識も持たない動物として、生き、かつ死んでいくのです。もし内なる喜びの泉を発見すれば、あなたは、幸せで満ち足りた平和と愛に満ちたアートマラーマとなるでしょう。(人間的五大価値より)


バガヴァン ババは、プレマ ヴァヒニ第27章(人生のすべての流れを、最後の瞬間に自分が持っていたいと思うこころの傾向(サムスカーラ)を獲得することに向けなさい)において、次のように述べられておられます。『生まれながらに備えている心理的・感情的・精神的な痕跡・衝動のうち、あるものは他のものよりも強く、最後まで際立っているものがあります。人生はそのようなもので、このことを人は学ばなければなりません。人生のすべての流れを、最後の瞬間に自分が持っていたいと思うこころの傾向(サムスカーラ)を獲得することに向けなさい。昼夜を問わず、そのことに意識を集中しなさい。死の瞬間にこころを支配する思いは、来世で大きな力を発揮することになります。この真理は、今生の旅でも人を導くものでなければなりません。生来の願望は、来世の旅だけではなく、今生の旅でも原動力であるからです。したがって、明日からは、避けられない死を常に念頭に置き、すべての人の幸福を願い、真理を厳守し、常に善良な仲間を求め、こころを常に至高神の御足に置いて、人生という旅を生きていきなさい。悪行や憎悪、有害な考えを避け、世間に執着することなく生きなさい。このように生きるなら、あなたの最後の瞬間は、純粋で、甘美で、祝福されたものになるでしょう。このような人生を全うするためには、生涯を通じての規律ある努力が必要です。こころは善良なる傾向(サムスカーラ)へと変容されなければなりません。誰もが自らを厳密に観察し、欠陥を見出し、それを修正するために努力しなければなりません。自らの欠点を発見して気づいた時、人は生まれ変わるようなものです。そして、新たな子供時代から人生を再出発していきます。これこそが、真の目覚めの瞬間です。(石井 真 訳)』


アートマン探求とは、いかなることでしょう。書物に記載されたアートマンの属性を研究することではなく、識別の力を内に向けて集中し、アートマンをおおうさやをはぎとって【わたし】の本性を分析することです。アートマン探求とは、外界、物質的世界を探究する事ではありません。あるいはまた、経典の解釈にかんする学問的追求でもありません。鋭い知性の刃によってなされるアートマンの真義の分析的探究なのです。それでは経典の学習をつうじてアートマンを探究することはできないのかと、尋ねる人もいるでしょう。答えていいます。それは、不可能です、と。アートマンは、サットチットアーナンダを本性とします。アートマンは肉体、幽かな体、基因体を超越します。アートマンは目覚め、夢見、熟睡時の心の状態を照覧する者です。これらの言葉の意味を理解して、アートマンを直接に見ることはできますか。直接に見ることは、いかにすれば可能でしょう。アートマンをおおっている五つのさやをはぎ、それをひとつひとつ「これではない」「これではない」と否定しつつ、それらより下方にふかく沈潜しそれらを越えて、多種多様の万有として顕現するものの基底にあるアートマンすなわちブラフマンに達することなのです。あらためてわたしは強調します。経典の奥義をきわめた大学者さえ、アートマンの真義を理解することはできないのです。アートマンの真義は直接の体験によってしか、理解することはできません。(英知より)


以上、バガヴァンババの御言葉です。

参考
「ヴァジラスーチカウパニシャド」にある「バラモンとはなんであるか?」それでは、バラモンとはなんであるか?もしもある人が、自己(アートマン)を、不二にして、生まれ、性質、動作を欠き、六つの襲いくる苦悩(冷、熱、貧、飢、渇、痴)と六つの情緒など一切の欠点を離れ、真実・認識・歓喜・無限なる本性があり、みずから無分別にして、一切のきまりのよりどころであり、一切の生きものの内制者として存在していて、内外ともに虚空のごとくに貫通し、欠けることのない歓喜を本性とし、無量であり、直観のみによって知られ、直接に知られるものとして顕現しつつあり、掌中のマンゴー果実のごとくに直接にはっきりと知って、なすべきことをなし終えたので、愛欲・貪欲などの欠点を離れ、静寂・抑制などを具え、情熱・嫉妬・愛執・希望・迷妄などを離れ、偽り・我執などに心の触れられることのない人、ーーここにあげたような特質のある人こそバラモンなのである、というのが、天啓経典・聖伝書・古伝話・史詩の説く趣意なのである。じつに、これ以外には、バラモンたるゆえんの成立することは存在しないのである。自己(アートマン)は有・知・歓喜にして不二なるブラフマンであると念じて修すべし。自己(アートマン)は有・知・歓喜にして不二なるブラフマンであると念じて修すべし。ーー以上秘義である。」(絶対者ブラフマンに合一した人のみバラモンである)

石井 真(いしい まこと)プロフィール
1963年生まれ。
明治大学法学部卒業。
シュタイナー教育の思想、理論の研究。
インドの宗教、思想(ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターなど)研究。
総合人間科学博士(Ph.D. of Human Science)。
東京都八王子市在住。

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