アートマン

バガヴァッド・ギーターはブラフマンについて、「永遠不滅にして最高の実在者。その実在者の性質をアッデャートマ(真我大霊)。それはあらゆる物の内にも外にも存在する。」と宣言します。
ブラフマンとアートマンは、性質は同一(梵我一如)である。これが普遍的原理である。

アートマンはどのようにすれば認識することができるのか。
ウパニシャッドは、「サット(実在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)、ニティア(永遠)、パリプールナ(遍満)」がブラフマン(アートマン)の本性であると言っております。
タイテーリヤは、アートマンは「アンナマヤコーシャ(食物よりなる鞘)、プラーナマヤコーシャ(生気よりなる鞘)、マノマヤコーシャ(認識よりなる鞘)、ヴィニャーナマヤコーシャ(英知よりなる鞘)、アーナンダマヤコーシャ(至福よりなる鞘)」の5つの鞘に覆われていると記述しています。
注目すべきは、タイテーリヤ・ウパニシャッドは、アーナンダはアートマンを覆う鞘であると記述していることです。
アーナンダの境位にあってもアートマンを認識することはできないということです。アートマンは、アーナンダ(至福)に覆われた存在であるということです。

アーナンダは、アートマン探求の過程で経験する至福のことですが、相対的世界において、外的要因によって経験する至福や歓喜、感動とは異なり、心の奥底から、身体の真奥から湧き上がってくる歓喜なのです。
ウパニシャッドが教示する、アーナンダ(歓喜)が存在することは、アートマン(真我)が存在していることの証明であると言えます。
アートマンは真我を現す語ですが、頭に記憶された知識としての語でありますから、この語からアートマンを言葉の世界で識ることは不可能です。また、五感(眼、耳、鼻、舌、身)によってアートマンを識ることも不可能です。アートマンは、身体の真奥に真我として存在するとしか言葉では現すことができません。

では、実際どのようにすればアートマンを識ることができるのか?
実感認識という方法以外、認識は不可能です。
全ての存在はアートマンであることはウパニシャッドによって明らかです。
ウパニシャッドはアートマンについて様々な記述で表現します。ウパニシャッドは、アートマンを実感として認識した者が、その認識に基づいたそれぞれの表現で現しています。このことからしてもアートマンが存在することは真実であると言えます。
アーナンダを越えてその奥に存在するアートマンを実感として体験した時、初めてアートマンが実在すると理解することができるのです。

目に写る全ての存在は、姿形は様々ですが、真実はアートマンがそのような姿形をとっているだけで、真実を観る者はアートマンとして認識するのです。
地を這うアリやミミズ、犬や猫を見て、アリやミミズや犬や猫と認識します。そのような認識は、様々な姿形が存在する相対的世界を認識するための方法であり、頭の中の知識として記憶されたものに過ぎません。アリ、ミミズ、犬、猫の名称は人間が名付けたものであります。このことからしても、あらゆる存在に名前はないのです。あらゆる存在に名前があるとの認識は、妄想であり、思い込みであり、錯覚なのです。
犬や猫、牛や馬を見て、犬、猫、牛、馬という動物であるとの認識は、相対的世界における二元論の見方であります。全ての存在はこの世界において、その存在において等しいのです。

生き物を分類すれば、人間と人間以外の生き物に分けられます。人間以外の生き物は自然界を構成します。従って、害獣、害鳥や害虫などは自然界に存在しないのですが、人間中心の考えから、害獣、害鳥、害虫などが生まれたのです。
人間の肉体は自然物でできていますが、進化により、人間は、思考力、判断力、理解力、統合力などの能力を保持することになったのです。人間はこの能力を正しく使ってこなかったのです。

二元論的認識にある以上、あらゆる存在はアートマンであるとの認識は不可能なのです。
真実在はアートマンであることは自明の理です。妄想、錯覚や差別という分別はアートマンの真理に到達することはありません。
個我の真奥に存在するアートマンをアートマンとして認識した者が、初めて全ての存在もアートマンであることを理解するのです。
マントラ、祭祀などは心を清らかにする行為ですが、アートマンの実感認識に至ることはないと言って良いでしょう。

真剣なアートマン探求こそが、真我実感認識に至る道なのです。
ウパニシャッドやバガヴァッド・ギーターはアートマン認識の道標となります。
自らが、アートマンの求道者であるとの自覚と、全ての存在に対して、その存在の理由の如何にかかわらず、全ての存在は等しいとの想いで接することは大事なことなのであります。常にアートマン探求の道を進めば必ず大いなる気づきに出逢うのです。

真我実感認識を得た後、遂には「全ての存在は私だ。」との認識に達するのです。「私」という呼称はこの身体を指す言葉ではありません。「私」とは、真我であるアートマンを指す言葉です。
全ての存在はアートマンなのです。「私はアートマン」これが真我実感認識より得た真の智識です。

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