ブラフマヌバヴァ ウパニシャッド

バガヴァン シュリ サティア サイババは、ウパニシャッドヴァヒニで、現存する108ウパニシャッドから、特に重要であるとみなされている「イーシャ」、「ケーナ」、「カタ」、「プラシュナ」、「ムンダカ」、「マーンドゥキャ」、「タイテイーリヤ」、「アイタレーヤ」、 「チャーンドウーギャ」、「ブリハッドアーラニヤカ」の10のウパニシャッドを選び、それぞれのウパニシャッドの核心について詳細に解説をなされておられます。バガヴァン ババは、「人間にとり最も必要とされることは何か。人間として知らなければならない最も重要なこととは何か。それは自分の真の実在を認識することであり、絶対実在に到達することである。」、「ウパニシャッド」の名称は、内在の真理を探究し実践することを意味します。「ウパニシャッド」はアートマンについての叡智を教えるのみでなく、アートマンを認識するための方法を教えます。」と、仰っておられます。

108のウパニシャッドは、01. アイタレーヤ(Aithareya)02. ブリハッドアーラニヤカ(Brihadaranyaka) 03.チャーンドゥーギャ(Chandogya) 04.イーシャ(Isa) 05. ケーナ(Kena) 06.カタ(Katha)07.プラシュナ(Prasna)08. ムンダカ(Mundaka) 09. マーンドゥキャ(Mandukya)10. タイテイーリヤ(Taithiriya) 11. アディーアートマ(Adhyatma)、12. アダヴァヤタラカ(Adhvayatharaka) 、13. アクシャーマリカ(Aksha-malika) 、14. アクシィク(Akshik)15.アムリタービンドゥ(Amritha-bindu )16. アムリタナダ(Amrithanada)17. アンナプルナ(Annapurna)18. アルニ(Aruni)19. アタルヴァシカ(Atharvasikha)20. アタルヴァシラ(Atharvasira)21. アートマ(Atma)22. アートマブッダ(Atmabodha)23. アヴァドゥタ(Avadhutha)24. アヴィヤクタ(Avyaktha)25. バースマ(Bhasma)B26. バーヴァナ(Bhavana)27. バーヴァリチャ(Bhavaricha)28.ブランマジャバラ( Brahmajabala)29. ブラマナ(Brahmana)30. ブラフマ-ヴィデヤ(Brahma-vidya) 31. ダクシナムルティ(Dakshinamurthi)32.ダッタトレェヤ(Dattatreya)33. デヴィ(Devi)34. ディヤーナ-ビンドゥ(Dhyana-bindu)35.エカクシャーラ(Ekakshara)36.ガナパティ(Ganapathi) 37.ガルバ(Garbha)38.ガルーダ(Garuda)39. ゴーパラタパニ(Gopalatapani) 40.ハンサ(Hamsa)41. ハヤグリヴァ(Hayagriva)42. ジャバラダルシャナ(Jabaladarshana)43. ジャバリ(Jabali)44.カイヴァルヤ(Kaivalya)45. カラアグニルドラ(Kalaagnirudra) 46.カタルードラ(Katharudra)47.カタルードラ(Katharudra)48.カウシータカ(Kaushitaka)49. クリシナ(Krishna)50. クシティ(Kshithi)51.クシュリカ(Kshurika)52.クンディスカ(Kundiska)53.マハ-ビクスカ(Maha-bhiksuka) 54. マハナラヤナ(Mahanarayana)55.マハヴァキャ(Mahavakya)56.マイトレヤニ(Maitrayani)57.マイトレイ(Maitreyi)58. マンダラ(Mandala)59. マントリカ(Mantrika)60.ムッドガラ(Mudgala)61.ムクティカ(Muktika)62.ナダビンドゥ(Nadabindu)63.ナーラダ-パリヴラジャカ(Narada-parivrajaka)64.ナラシムハ(Narasimha)65. ナーラヤナ(Narayana)66. ニラランバ(Niralamba)67. ニルヴァーナ(Nirvana)68.ヌリシムハタパニ(Nrisimhatapani)69. パインガーラ(Paingala)70. パンチャブラフマ(Panchabrahma)71. パラブラフマ(Parabrahma)72. パラマハンサ(Paramahamsa)73. パラマ-パリヴラジャカ(Parama-parivrajaka) 74.パスパッタ(Pasupatha)75. プラナグニホトラ(Pranagnihotra)76.ラーマラハスヤ(Ramarahasya)77. ラーマタパニ(Ramathapani)78. ルドラフリダヤ(Rudrahridaya)79. ルドラクシャ(Rudraksha)80. サンデリヤ(Sandilya)81. サンニャーサ(Sanyasa)82. サラバ(Sarabha)83. サラスワティ-ラハーシャ(Saraswathi-rahasya) 84. サリラカ(Sariraka)85. サルヴァ-サル(Sarva-sar)86.サッチャヤーナ(Sathyayana) 87.サヴィトリ(Savithri) 88. シータ(Sita)89. スカンダ(Skanda)90. ソーバギャラクシュミ(Soubhagyalakshmi) 91. スカラハシャ(Sukarahasya)92. スラバ(Sulabha)93.スリヤ(Surya)94.スベタースヴァタラ(Swethasvatara) 95. テジョビンドゥ(Tejobindu)96. ターラサラ(Tharasara)97. トリプラ(Thripura)98. トリプラタピニ(Thripurathapini)99. トゥリヤアティタ(Thuriyatita)100. トリシキ-ブラフマナ(Trisikhi-brahmana) 101.ヴァジラスーチカ(Vajrasuchika)102. ヴァラハ(Varaha)103.ヴァスデヴァ(Vasudeva)104. ヤジュナバルキャ(Yajnavalkya) 105. ヨーガチュダマニ(Yogachudamani) 106. ヨーガクンダリニ(Yogakundalini) 107. ヨーガシクシャ(Yogasikha)108. ヨーガタットワ(Yogathathwa)です。

ウパニシャッドヴァヒニの最後の項に、バガヴァン ババは、「ブラフマヌバヴァ ウパニシャッド」を現しました。「ブラフマヌバヴァ」には、10のウパニシャッドのそれぞれのエッセンスがちりばめられており、識別をし真の自己とはなにかを認識するための実践方法を示し、求道者に気づきと自覚をうながす道が示されております。

「わたし」とは、絶対実在・純粋意識・永遠の至福(サッチダーナンダ)としての実在を指す言葉です。「わたし」をこの身体を示すために使用することは無知でしかありません。

この無知と、誤った自己同一化こそが、悲嘆と喜びを幾度となく繰り返す絶え間ないサイクルの原因です。ですから、識別を用いて「わたし」という言葉を、自らの、至髙神としての実在のみを意味するものとして用いるようにしなさい。それによって、ブラフマンの叡智(アートマの叡智)が得られます

ブラフマヌバヴァ ウパニシャッド(石井 真 訳)

I ウパニシャッドの精髄である不ニー元

伝統的な経典(シュルティ)は、「ブラフマンは唯一無二の存在である(エーカム エヴァ アドヴィティヤム ブラフマ ekam eva advithiyam Brahma) 」と宣言しています。つまり、ブラフマン以外に何もありません。あらゆる状況において、いかなる時にも、いかなる場所にあっても、ブラフマンだけが在ります。全ての現象の出現以前に、サット(永遠なる実在)だけが在り、全ての現象が無に帰した後も、サットだけが在ります。

チャンドーグヤ・ウパニシャッドは、初めに、サットだけがあり、他には何もない、と述べています。

マンドゥキヤ・ウパニシャッドはそれを平安・吉祥・不ニー元(サンタム、シヴァム、アドワイタム)と呼びます。そこから発せられ、または顕現したものだけが2つに見えるのです。見られるものは、見る者とは異なる存在です。さらに、見られるものは、見る者の好き嫌い、彼らの想像力と感情、彼らの衝動と性向の産物です。ランプの電源を差し込むと「蛇」が消え、ロープだけが残り、幻が理解されます。ブラフマンの知識(ブラフマ・ニャーナ)に照らして世界を見ると、「マインドによって好ましい、あるいは、好ましくない移ろいゆく二元の世界」が消滅します。

怖れを引き起こすのは「二元の世界」です。自らが、聞く者、見る者、行う者、楽しむ者である場合、どうして怖れが生じるというのでしょう? 眠っているときのあなたはどのような状態にありますか? 睡眠中、外界は存在せず、あなた一人の世界です。すなわち、「今、即、一なる存在」だけがあります。実在とは、呼吸よりも近く、心臓の鼓動よりも近い存在であり、この実在を熟考し、内側のハートの祭壇に常に在る自らの実在を想う時、それは実感認識されます。ハートの中の実在は全てに遍満しています。生きとし生けるものの全てを維持している精妙なエネルギーとして、神はあらゆる意識(チット)、活動や運動の背後にある秘められた存在です。

II 5つの属性で表されるブラフマン

絶対実在、純粋意識、至福、遍満、永遠(サット、チット、アーナンダ、パリプールナ、ニッティヤ)、ブラフマンは、これらの5つの属性によって説明されます。これらの属性を理解することで、ブラフマンを理解することができます。実在は時間の影響を受けることはありません。

純粋意識は、他のすべてと同様に、自らをも照らし、明らかにします。至福とは、創造された世界において、最大で最髙の理想的な欲望の原形となるものです。充満と遍在は、不足や縮小、衰退や滅失を知りません。永遠とは、空間、時間、そして具体的な個別化の制限による影響を受けることがありません。

ブラフマンの知識(ブラフマ・ニャーナ)に照らしてみると、世界は一時的で、実態を持たない蜃気楼であり、世界は、この知識によって否定されます。世界とは「見られるもの、聞かれるものなど、感覚器官によって捉えられる現象」の別名にすぎません。しかし、「あなた」、個人(ジーヴァ)、見る者とは、その本質に於いて「実在、純粋意識、至福」を本質とするブラフマンであることを覚えておきなさい。この真理に意識を留め置きなさい。その本質を最も顕現しているOM (オーム)を瞑想しなさい。この瞬間から、あなたがアートマであることに気づきなさい。無知の霧が晴れると、一人ひとりに内在しているアートマはその本来の輝きを放ちます。その時、あなたは、砂漠の砂地で蜃気楼を追求していたこと、つまり、始めもあり終わりもある、「現実」のように感じられる事物を掴もうとしていたことを識るのです。

Ⅲ 欲望・執着・エゴを手放す

マインドが、感覚器官の対象物への欲望や嫌悪に浸る時、マインドは執着によって縛られている状態にあります。そのような束縛から解放されるためには、マインドはどのような対象をも欲したり、忌み嫌うことのないように訓練されるべきです。束縛されるのも束縛を解くのもマインドです。激性(ラジャス)に支配されている時、マインドは簡単に執着に陥ります。浄性(サトワ)が優勢である場合、マインドは解放を容易に獲得します。

私は肉体である、と感じる人は、五感を通して得られる快楽を執拗に追求します。欲望は、自らを肉体と同一視することによって生じます。自らは肉体である、という思いを手放した時、欲望もまた、あなたをあきらめます。

喜びと悲しみは、善と悪と同じく、超越されるべき観念です。愛情と憎しみは人々の内なる道具としての感情の表現です。それらは、「全ての背後にある全てを生かす存在」の属性ではなく、個人の魂(ジーヴァ)、または個人の本質的な実在であるアートマにも属していません。

IV アートマは常に遍在で、永遠に純粋で、光そのものとしての輝きを放つ

アートマは、常に純粋であり、執着から解放されており、一瞬たりとも束縛されることはありません。ムンダカ・ウパニシャッド・マントラ(Ⅲ-Ⅰ)は、「大きくて精妙な翼を持つ二羽の鳥が、常に一緒に木に止まっている」と述べています。一羽の鳥は果物を味わっていて、もう一羽はそれをただ眺めています。木は身体を表し、二羽の鳥は個々の魂(ジーヴァ・アートマ)と至髙のアートマ(パラマートマ)を表しています。

個別の自己は、それが従事する行為から喜びと悲しみを体験します。至髙のアートマは、最も微細なものよりも微細であり、最も粗大なものよりも大きく、全ての現象を見つめる照覧者そのものです。

血液と膿からなるこの物質の塊が、純粋で、自ら光を放つ、常に照覧者であるアートマであると、どうして言えるでしよう?
この肉体は食べ物によって造られ、常に変化しています。出生前には、その存在はなく、死後は朽ち果てていきます。いつ何時でも損傷しやすく、四肢の有無が生命の存続には影響を与えませんが、生命エネルギーの流れが止まるとすぐに分解が始まります。ですから、肉体は最髙位の存在として観られるべきでなく、また、遍在であり不変であると見られるべきでもありません。あなたが実践すべきヨーガとは、マインドの動揺を、照覧者の視点で見つめ、決断や決定の是非すらからも自分を解放することです。マインドとその動きを常に制御しておきなさい。ヨーガとは、個々の魂(ジーヴァ・アートマ)がその全ての歩みを至高のアートマ(パラマートマ)に調和し、一体化していくプロセスであり、目標は、両者の融合です。融合によって、すべての悲しみが終焉します。信仰をもって着実にヨーガを実践し、揺るぎない放棄(無執着)を拠り所としている人は、確実に勝利を収めることができます。

V マインドの影響を受けることなく、欲望、愛着を手放す

絶対実在・純粋意識・永遠の至福(サッチダーナンダ)における純粋意識(チット)の実感認識とは、マインドの動きに全く影響を受けることのない完全なる平安を意味し、それは実際、アートマの叡智(アートマ・ニャーナ)であり、誰もが体験できるものです。一般的な用語として、「超知識」は科学の領域で使われるものですが、実際には、それはより髙位の叡智を意味しています。

「真我」には、「行動(カルマ)からの印象」や「行動を促す願い」の存在する余地はありません。願いはマインドを損ない、行動を引き起こし、行動はマインドに痕跡(ヴァーサナ)を残します。マインドと共にただ在りなさい。その時、マインドは消滅します。このことを意図して、ヨーギは内なる洞窟へと入っていきます。

痕跡(ヴァーサナ)は二つに分類されます:有益なもの(スッバ)と、有害なもの(アスッバ)です。有益な印象は解放を助けます。ジャパ(御名を繰り返し唱えること)、瞑想、善行、慈善、正義、無私の奉仕、感謝、思いやり、これらは有益なものです。怒り、残酷さ、貪欲、欲望、うぬぼれといった、有害な性向は、有益な印象の助けを借りて根絶されなければなりません。最後に、足の棘を取り除くために使われた棘も捨てられるのと同じように、有害な印象を克服するために使われた有益な印象も捨てられなければなりません。有益な印象は愛着の産物であり、さらなる愛着を生み出します。それは多くの生を通して持続する可能性があるため、解放された魂(ジーヴァン・ムクタ)は有益な印象をも克服する必要があるのです。そのような魂にとって、有益な印象は縛ることができない焦げたロープのようでなければなりません。実際、感覚的な渇望、欲望、貪欲などの一連のグループは、アートマを内なる目で見た瞬間に燃えつき、誰をも、また何をも引き寄せる力はなく、賢者はそれらから解放されています。太陽が沈むところ、賢者にとって、そこが休息のために横たわる場所となります。彼は、俗世にありながら、人に知られることも、認められることもありません。否、それを避けようとすらします。

見る者と見られるものが同一である場合、その喜びは第四段階(トゥリヤ)の喜びと表現されます。これを超えてしまえば、アートマに到達することは確実です。アートマとその実在に絶えず意識を置くことにより、世界への愛着が失われます。霊性の鍛錬は休むことなく続けられなければなりません。真の霊的探求者は、全身全霊で、マインドの焦点を、世界の事象や感覚を誘惑するものから、ブラフマンを知るという厳格な目的へと向け直さなければなりません。

自らの本質に気づくことのない(鈍性の)在り方は悲しみを生み出します。純粋な(浄性の)在り方は、ダルマを促進し、社会と個人の福祉に貢献します。欲望に溢れる(激性の)在り方は世界の荒波の中へと溺れさせるものです。これら三つの属性(グナ)を手放すことで、ブラフマンの叡智を受ける資格が与えられます。

VI 感覚を否定するプロセスによってブラフマンに到達する

ブラフマンには計り知れない深さがあります。そのブラフマンを、限界あるマインドによって測定し理解することができるでしようか?ブラフマンは、言語によるいかなる表現によっても、いかなる類似した形式や形態によっても描写される可能性もありえず、マインドの理解を超えています。ヴェーダンタが宣言しているブラフマンとは、「これでもなく、あれでもない」とでしか描写ができない実在であり、実在とは、ハートの奥に広がるブラフマンです。

「わたし」とは、霊性の探究者が必死の思いで認識し獲得しようとする究極のゴールであり、ブラフマンとは、体、マインド、生命のエネルギー、脳などを差し引いた後にも残るものです。この知識は、「これでもない、あれでもない」という否定によって獲得されます。このように、一つひとつ否定していくことによって、「したがって、これが神からの授かった分身としての存在(デーヴァダッタ)である」という結論に到達します。この物質世界における外観、あるいはその根拠の脆弱さを突き詰めることによって、そして、それらの真の姿を明らかにすることによって、「汝はあれである(タットワマシ)」という真理が確立されます。個人の魂(ジヴィ)を隠す覆いが取り除かれると、個人の魂はパラマートマまたはパラブラフマンであることが明らかにされます。真の自己(ジーヴァ・アートマ)は、パラマートマと、その本質において異なるものではありません。

「わたし」とは、絶対実在・純粋意識・永遠の至福(サッチダーナンダ)としての実在を指す言葉です。「わたし」をこの身体を示すために使用することは無知でしかありません。この無知と、誤った自己同一化こそが、悲嘆と喜びを幾度となく繰り返す絶え間ないサイクルの原因です。ですから、識別を用いて「わたし」という言葉を、自らの、至高神としての実在のみを意味するものとして用いるようにしなさい。それによって、ブラフマンの叡智(アートマの叡智)が得られます。

アートマを絶対実在として体験するには、感覚のコントロール、肉体的な愛着の除去、そして、真実を生きることが不可欠です。

Ⅶ 神は遍在

ブラフマンは、神々の中の教師(ブリハスパティ)であり、あらゆるマインドに、あらゆる聴覚に、あらゆる視覚に遍在し、すべてを照らし、かつ、自らが光を放つ存在です。

ブラフマンの栄光は、創造された全ての存在の中にあって、光を放っていることです。ブラフマンによって創造された世界が維持され支えられています。感覚はマインドと知性に包含されていますが、ブラフマンはマインドにあっては叡智であり、ブラフマンの存在なしではマインドと知性は機能しません。

マインドと知性は、地上で育ち地上と繋がっている草のように、ブラフマンから生じ、ブラフマンに融合します。

火に入れられた鉄は赤くなり、冷却すると再び黒くなります。同様にまた、知性は、至髙のブラフマン(パラブラフマン)に常に焦点を定めることによって、霊性の叡智(二ヤーナ)によって輝きます。パラブラフマンとは霊性の叡智の本質(ニヤーナ・スワルーパ)です。子宮の中の胎児のように、神は、全ての存在に、生命として宿っています。

Ⅷ 知恵または愛を通して神性を見出す

五感を通して見たり、顕現している神だけを信じると宣言する人もいます。これは世俗的な人の通常の議論です。しかし、粗雑な肉眼で、最も微細なものよりも微細な至高のアートマを見ることは容易ではありません。まず、この目的に合った強力な顕微鏡を駆使しなければなりません。知恵の目か愛の目かのどちらかが必要があります。それによってのみ、あなたは神を見ることができます。

「痛み」と呼ばれるもの、または「甘さ」を他の人に示すことができますか?目は愛、哀れみ、慈悲、美徳、信仰のような抽象的なものを見ることができません。それは肉眼としての能力を超えています。しかし、言葉、行動振る舞に接して、その人の心の中に愛があるのかが推し量れます。また、人がブラフマンを知る者であるかどうか、自らの現実の中でそれがどれだけ深く確立されているか、時々思い出したような状態か、あるいは着実で間違いない状態かどうかを判断することもできます。神の叡智、神の恩寵、自然との調和、これらを通して彼を特定し発見することができます。したがって、何よりも、知恵の目または愛の目を獲得することです。

サトウキビの汁や砂糖の中にある甘さのように、至髙のアートマ(パラマートマ)は常に創造物の中に内在しています。パラマートマは全ての存在の核となるものです。パラマートマは遍在であり、常にすべての中に在ります。パラマートマには形がありません。アートマは「形がない(ア・タヌ)」のです。それは内在者(プルシャ)です。肉体への愛着を捨て、心と知性を浄化することによってのみ、あなたは自らの真実に溶け込み、永遠の至福、至髙の平安(プラシャンティ)、最も純粋な叡智を得ることができます。このようにして、人は、誕生と死の鎖から解放されるのです。

IX 喜びと悲しみ、悪と美徳はマインドが創り出す束縛

身体を意味するデーハは、焼くことを意味する語幹、ダーハから派生しています。それは、燃やされなければならないものを意味しています。

しかし、賢者(グナーニ)には、粗雑体、微細体、原因体の三つの身体があります。それでは、何が焼かれるのでしょう?三体を燃やす苦行は、瞑想によって、至髙神を照覧することができるとされる場であるフリダヤ・アカーシャ(ハートの中の光輝く空間)で、物質的な世界と肉体によって引き起こされる悲しみ(アディ・バウティカ)、宿命運命によって引き起こされる悲惨さ(アディ・ダイヴィカ)、個別の魂(アディ・アトミック)を燃料として、賢者は、火よりも速くそして完全に、三体を燃やし尽くすことができます。しかしながら、人が身体と自らを同一視するならば、それはまさしく愚かであると言わざるをえません。一方、人の実相とは絶対実在、純粋意識、至福(サット、チット、アーナンダ)である、という信に固く根ざしている者は、神そのものへと変容します。肉と骨から成る粗雑な身体を、あるいは、微細体、原因体ですらをも、自らと同一視してはなりません。

アートマは、至髙のアートマ(パラマートマ)とだけ、同一視されなければなりません。そうしてはじめて、永遠の至福が生まれます。喜びと悲しみ、善と悪は心の領域に属し、あなたの本質には属しません。あなたは行為者でもなく、行為の果実を享受するものでもありません。あなたは、かつてこれまでも、そして、今後、将来、永遠に亘って、なんらの影響を受けることのない存在です。

美徳はダルマ(正義・使命・正しい行い)です。悪はアダルマ(ダルマでないこと)です。どちらもマインドの産物であり、マインドを結ぶ紐です。

人々がこのより高位の真実を体験するとき、彼らは、ダルマ・アダルマの双方から解放され、実在のビジョンを得ます。カイコが自らが出す糸の繭に絡みついて閉じ込められるのと同じように、人々は、願いの繭を自らの周りに創り、そして苦しむのです。

アートマは、いまだかつて、いかなる束縛やもつれに苦しんだことはありません。それは「世界の絶え間ない変化に囚われない存在」なのです。その性質は、純粋、全体性、歓び、叡智です。

「私」という思いがあるとき、束縛があり、「私」という思いがないとき、解放があります。「私」という思いこそが本当の束縛です。

X 3つの相違または幻想の克服

アートマの叡智を探求する者の道に於ける三つの障害とは、過去、現在、未来です。これらは克服されなければなりません。解放された魂(ジーヴァン・ムクタ)は、過去、現在、未来によって煩わされることはありません。それは、見る者、見られる者、そして見ること、という三つの相違を超えています。解放された魂は、相違がマインドの産物であり、実態のないものであることを知っています。見る者、見られる者、見ることを別々のものと見る幻想が克服されると、あらゆるものの中にいつでもブラフマンが体験されるのです。

石井 真(いしい まこと)プロフィール
1963年生まれ。
明治大学法学部卒業。
シュタイナー教育の思想、理論の研究。
インドの宗教、思想(ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターなど)研究。
総合人間科学博士(Ph.D. of Human Science)。
東京都八王子市在住。

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