エピローグ

エピローグ

「真実の私」と題するこのWEBサイトを公開したのは、天体地球に住む人の世界を見渡せば、私たちは、差別、分断、非難、犯罪、紛争、戦争など混沌、混乱、困難の中で生活しております。この人間間の不幸は止む事なく続き、地球全体を覆っています。
私たちは、地球上に棲む人間以外の生き物、そして人間の棲家である天体地球も人間の行為のためにどれほどの受難を被っているか気づいていないのです。
その根本原因は、私たちが自らの真の存在について、知らないことにあるのです。
更に言えば、真の存在について知らないことにさえ気づいていないという現実があるのです。
自らの真の存在を知らないということに気づく事が真我実感認識への第一歩です。
真我とはどのような存在なのか、その真の存在を知ることができれば、本来の人間として生きるのみならず、これまでの人間の行為によって自然環境が変化する中で、生存を脅かされているあらゆる生き物と、天体地球も平安を享受することができるのです。
私たちは、相違として認識する世界を真実と思っています。相違と見るその認識は錯覚なのですが、そう言われても、錯覚であることを理解する事は大変困難なのです。
錯覚であるとなぜ理解できないのか。それは、「私」という真の実在を実感として認識した後に、初めて、相違と見たのは錯覚であったと理解することができるからです。
どのようにすれば真我を実感認識することができるのでしょうか。
それには今日までの生き方を、只今から、今日からの生き方に変えることが必要なことは明らかです。

真我実感認識とは何か、どの様にすれば実感認識に至る事ができるのか、その指針と方策をバガヴァン シュリ サティア サイババは、ヴェーダンタ(ウパニッシャド)やバガヴァット・ギーターなどを題材にして数々の御講話をなされており、人の本質とは何かを教示してくださいます。

バガヴァン シュリ サティア サイババは「人間にとり最も必要とされることは何か。人間として知らなければならない最も重要なこととは何か。それは自分の真の実在を認識することであり、絶対実在に到達することである。アートマを絶対実在として体験するには、感覚のコントロール、肉体的な愛着の除去、そして、真実を生きることが不可欠です。」と、御講話を通じて私たちに人間として生きるよう目を覚ましなさいと仰っておられます。

宇宙に顕現した現象世界はなぜ存在するのでしょうか。「なぜ太陽は、遅れることも破裂することもなく、毎日昇っては沈むのでしょう? 万人の目を楽しませるために空に輝く星々は、なぜ夜が明けるとそのきらきらと輝く顔を隠してしまい、自分はどこにいるかを告げようとこっそりとかすかに姿を見せることさえしないのでしょう? なぜ空気は常に私たちの周りにあって、命をつなぐ呼吸をもたらしているのでしょう? なぜ小川や河は、轟音(ごうおん)を立てたり、せせらいだり、笑ったり、岩や玉石や砂のことを噂したりしながら、自分の親である海に向かってくねくねと流れていくのでしょう? 人類を形成している何十億という人間は、同一の存在の写しを保管する宝箱でありながら、どうやって互いにまるで異なった容姿、業績、志、態度を持っているのでしょう? これが答えです。私は、これらの玉石がそうなって、そのように振る舞うよう定めた者であると知りなさい。」(サッティヤム シヴァム スンダラム 御講話より)

心臓は、母の胎内で動き始めた後、死ぬ時まで休むことなく動き続けますが、心臓を動かしている機能とは何なのでしょう。肺は、肺胞にて酸素を取り込み、不要な二酸化炭素を排出するガス交換をする臓器です。その機能は、血液中から二酸化炭素を排出し、血液中に酸素を取り込むことですが、誰が二酸化炭素と酸素を認知し、何故このようなことができるのでしょうか。飲食物の味覚を舌が味わった後、飲食物は食道を通り胃に入ります。喉元を過ぎて胃に入った後の飲食物がどのように分解消化されているのか、知ることはできません。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、痛覚、温度覚、振動覚などの感覚器官が何故機能するのか、誰が機能させているのか。私たちは、肉体とその機能について知らないのが現状です。身体の機能は深心微妙で身体を内観しても、自分の身体のあらゆる部位で起こる肉体を正常に維持するための機能について、己の脳がそれらの機能を認知することは不可能です。
肉体で起こる現象を理解していない私たちは、真実の「私」をどのようにして実感認識するのか、バガヴァン シュリ サティア サイババは、「感覚のコントロール、肉体的な愛着の除去、真実を生きることが不可欠」と、仰っておられます。「感覚のコントロール」で、一番大切なことは食事です。食べた物が肉体を作ります。肉体を健全に保つために何を食べれば良いのでしょうか。舌の持つ味覚が食物を味わうことは2次的な要素と見るべきでしょう。味覚の持つ本来の目的は、体内に毒劇物を入れないことです。味の誘惑に気をつけ、食材は新鮮で清らかなものを吟味し、ビタミン、ミネラル等が欠落しないよう調理方法にも気をつけるべきです。油脂にはオメガ3・6・9の分類があります。特に欠乏しやすいオメガ3脂肪酸の摂取を心がけることです。「肉体的な愛着の除去」、心が作り出す傾向「私のもの」という感情が支配する強さをどのようにすればコントロールできるか。行為の果実は、行為者が享受することを理解することが必要です。「真実を生きること」とはどの様な生き方なのでしょう。万物をよく観察すれば同一なるものは一つもありません。今、世界の人口は約80億人と言われておりますが、誰一人同じ容姿・姿型の人はなく、すべての人は唯一無二の存在です。このことは、唯一なる存在がそのような姿形を纏ってそこに現れているということです。すべての存在は創造主の現れであります。このような認識のもとに過ごす日常は、全ての現象を知悉することは不可能ですが、真理を見定めるために大事なことなのです。人間はこの宇宙において生き物の中の一つの存在です。全ての存在も同様それぞれが一つの存在です。全ての存在に愛を持って接し、平等心を持ち差別しないこと、全ての存在は、姿型はそれぞれであるが、個々に特性を持ち自然界に必要であり、その核心に存在する者は唯一者であること、この肉体に「それ」が存在しなければ生命体としての肉体でいることができないことを理解することです。常に「それ」がこの身に実在することを意識して、日々の生き方を清らかにして過ごすことです。そうすることにより、至福は突然訪れてくれるのです。その時、何故人間に生まれたのか、答えが出るのです。

2024.11.20 忍田 裕昭 著

1989年8月に頸髄損傷の怪我をしなければ、私は誰なのか、私とはどのような存在なのか、知りたい、知らなければならない、という欲求が起こることはなかった。その時は、怪我の状況から、これは死ぬかもしれない、死が目前に迫っているとの思いがあり、その様な時、通常では考えられないような心理状態になったのです。切迫した心の状態ではありましたが、死ぬということを冷静に考えられる気持ちと、湧き上がってくる様々な記憶を見つめる余裕があったのです。「私は、自分が誰かを知らない。」との思いは、心の奥深い意識の中にあった記憶されたものが、その時の異常な心的状態の中で湧き上がってきたものとでも言えましょうか。その時から私は、「私」という存在は何かということを真剣に探求することになったのです。もし、この頸髄損傷の怪我をしていなかったならば、私の人生は怪我をする前の延長線上を歩いていたことでしょう。

忍田 裕昭

真実の私(私とは誰か?)