不二一元

不二一元

サトウキビジュース、砂糖、お菓子

神聖なアートマの化身のみなさん! 古代から、バーラタの文化は高い理想を維持してきました。その教えの中でも最も重要なのは、母と父を神聖な存在として敬うという教えです。 “マー トゥル デーヴォ バーヴァ!ピトゥル デーヴォ バーヴァ! ” (母を神聖なる存在として尊重し、父を神聖なる存在として崇拝しなさい)。
人間の生命は実に甘美なものです。この甘さがなければ、人生は無価値です。人は様々な方法で感覚的な楽しみを得ようと努力しますが、これらの肉体的な喜びを超える甘美さがあります。それはバーラティーヤ文化の貴重な果実です。

母性に内在する神聖さを認識しなさい
母は子を育てるため全てを犠牲にし、子を守り、立派に育てます。したがって、この母の愛に見られる甘美さは、他のどのような事物や経験にも見られません。「母の愛以上の甘さは私たちの国には見当たらない。人の名誉は人の命よりも大きい」という言葉があります。人は母性に内在する神聖さを認識すべきです。
ラーマがシータと共に森に行ったとき、ある日彼女に言いました。
「ブージャータよ!この世には、母と父よりも崇拝すべき神々はいません。子にとって愛する母が近くにいて、子のために常に気にかけ、彼の安寧を育くむとき、彼女を神聖な存在として崇拝せずに、人はどのようにして日常の経験を超えた微細な存在を考えることができるのでしょうか?神はすべての人間の理解を超えています。これはどのように認識されるのでしょうか?日常生活で経験する身近な親のこころを理解できない人々に、どうして絶対実在を理解できるのでしょうか。ウパニシャッドは絶対実在は言葉とマインドの理解を超えていると宣言しています。だからこそ、母と父を神聖な存在として崇拝すべきなのです。ですから、父の意志を実行することが、私の最も重要な義務なのです」
しかし、人間の理解を超える神性を理解したいのであれば、人間を超えたレベルに到達する必要があります。それが達成されるまで、私たちは人間のレベルだけですべてを経験しなければなりません。人間として生きながら、どのようにして人間の能力を超えるそれを認識することができるのでしょうか?
まず第一に、人は人として生きる努力をしなければなりません。人は人間の姿に宿っている神性を認識しなければなりません。人は真実に対する信仰を培い、それに従って生きる必要があります。献身的な奉仕の生活を送り、プレマ(神聖な愛)の果実を享受すべきです。神を愛する最良の方法は、すべての人を愛し、すべての人に奉仕することです。
前日、スワミは学生たちに話しました。すべての人に宿る神性は一つでありながらも、個々の能力や性格は様々であると。文化的な領域での心の修養の成熟度や霊的規律のありかたによって、あるいは親から受ける影響や環境によって、人の視野は広かったり狭かったりすると。人の心的態度は日々の経験・実践・修養によって決まります。したがって、人は善行に従事すべきであり、努力を重ねることで、人は内なる神性を実現することができます。これは、二つの棒をこすり合わせて火を起こすこと、あるいはミルクをかき混ぜてバターを得るようなものです。

アディ・シャンカラのアドヴァイタ(不二一元論)
アディ・シャンカラは、5歳の時、ウパナヤナ(霊的イニシエーション)の儀式の後、彼のグルのもとで、三年も待たずに四つのヴェーダと六つの聖典を習得しました。真摯さをもってすれば、人は何でも成し遂げることができます。シャンカラは学びを深め、エーカトワム(一体性)がすべての知識の本質であると認識しました。これがアドヴァイタの教えです。”エーカメーヴァ アドヴアィティヤム ブラフマ”(絶対実在は一つだけであり、二つはありえない)、第二の実在は存在しないが、その唯一者には膨大な多様性の顕現があると。それでは、どのようにしてこの一体性は認識できるのでしょう?
例を挙げると、数字の一と九があります。この二つの数字のうち、どちらが大きいでしょうか?自然な答えは九です。しかし、これは正しくありません。1 + 1 + 1 + 1 九まで足すと、九になります。したがって、ヴェーダは”エコーハム バフシャーム”(私は一なる存在であるが、多となるよう意志する)と宣言します。存在するのは一つだけです。しかし、それは数多くの姿・形を取っています。シャンカラはアンカトワム(多)は一つに取り込まれると宣言しました。これは多様性の中の一体性です。サトウキビの茎はたくさんありますが、それらすべてから出る汁の甘さは同じです。生物は多くいますが、息吹は同じです。国は多くありますが、地球は一つです。
このように、シャンカラは見た目の多様性の背後にある一体性を世界に宣言しました。彼は、すべてのサトウキビの茎に存在する同じ甘い汁の例えを使いました。

ヴィシシュタ・アドヴァイタ(条件付一元論)とドワイタ(二元論)
ラーマーヌジャはこのような質問をしました「ジュースの甘さ、新鮮さはどれくらい続くのか?」それは長くは続きません。サトウキビのジュ ースが何らかの持続的な形態に変われば、多くのものを甘くするために使用することができます。変換は砂糖の形でなければならず、それを使用して甘い料理を作ることができます。しかしサトウキビジュースという根源がなければ、砂糖は存在しません。サトウキビのジュースはアドヴァイティック(不二一元論)原理を代表し、砂糖はヴィシシュタ-アドヴァイタ(条件付一元論)原理を代表します。
次にマドヴァの宣言がありました”ピシターディ グナサンパルカート”さまざまな甘い料理は、ピシタ(小麦粉)と砂糖を一緒にすることの結果です。いくつかの種類の小麦粉がなければ、砂糖自体は多様な種類のお菓子の形で現れることはありません。様々な種類の小麦粉と組み合わせた砂糖は、幾つもの数や種類のお菓子を作るのに役立ちます。しかし、甘さの源は小麦粉ではありません。小麦粉から作られたお菓子の中の砂糖が甘さの原因です。これはドヴァイタム(二元論的教義)を説明するために使用される類推です。

(訳者注)
1.アドヴァイタ (不二一元論)
 提唱者: アディ・シャンカラ
 中心的なアイディア: 個々の魂(アートマン)と最高の現実(ブラフマン)との間には区別がなく同一の存在。
 キーコンセプト: 知覚される違いと物質の世界は無知(マーヤ)による。気づきを得ると、人は一なる実在を知覚する。
2.ヴィシシュタ・アドヴァイタ (条件付一元論)
 提唱者: ラーマーヌジャ
 中心的なアイディア: 個々のアートマン(魂)と物質の世界は実在し、それらは同じ究極の現実、パラマートマ(ブラフマン)の異なる部分であり、それらは幻想ではなく、ブラフマンとの限定された非二元状態で存在している。
キーコンセプト: パラマートマ(ブラフマン)を壮大な宇宙的存在として考えると、個々のアートマン(魂)はその体の細胞のようなもので、物質的宇宙はその身体となる。すべては実在して関連しているが、個々の部分と全体の間には区別がある。
3.ドヴァイタ (二元論)
 提唱者: マドヴァ
 中心的なアイディア: 個々の魂(アートマン)と至高の実在(ブラフマン、パラマートマ)との間には明確で永遠の区別がある。
 キーコンセプト: アートマはブラフマンに依存しているが、それと同一ではなく、救済はブラフマン(パラマートマ)への深い献身を育むことに関与しているが、二つは同一にはならず、区別される。永遠なる主(パラマートマ)と永遠なる奉仕者(アートマ)の関係が永遠に続き、アートマは奉仕の甘美さを永遠に味わうことができる。

すべての教義に共通する甘美さ
シャンカラはアドヴァイタ(一元論)の解釈者として、ラーマーヌジャはヴィシシュタ・アドヴァイタ(条件付一元論)の解釈者として、そしてマドヴァはドヴァイタ(二元論)の解説者として、世界に霊的な道を教える偉大な教師として際立っています。しかし、これら三つの教義には共通の甘さがあります。シャンカラはすべての多様性の背後にある一体性の認識を強調しました。”エーシャ、ギレーシャ、ナレシャ、パレシャ、ビルヴェーシャ ナモー サームバ サダーシヴァ シャンボー シャンカラ シャラナム メイ タヴァ チャラナユガム”と、アディ・シャンカラはシヴァを讃え、多様性の中の一体性を宣言しました。シヴァのさまざまな属性を列挙する中で、アーチャーリャは、シヴァと呼ばれるどんな名前であっても、シヴァはすべてであると宣言しました。これにより、神の遍在が宣言されます。シャンカラの不二一元論は、身体は多様であり、これらの別々の体に唯一なる神が遍在しているという考えを普及させました。しかし、不二一元論に関しては、それをバーヴァ(本質)として経験する可能性があるにすぎず、日常生活での活動を遂行する際には不二一元論を適用することはできません。虎や蛇や人間には等しく唯一なる神が宿っていますが、これを概念として認識することができても、その概念をもとに虎に駆け寄って虎を抱きしめることはできません。虎は虎として扱われ、蛇は蛇として扱われるべきです。同様に人間は人間に適切な地位を与えられるべきです。一方、それと同時に、すべての存在に同じ神が遍在しているという信念を持っていなければなりません。これは、すべての存在に三つの神聖な特性が存在することによ って示されます。すなわち、アスティ・バーティ・プリヤム(存在・認識可能性・有用性)です。
これは、サット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)という他の用語でも表現されています。サットは変わらないものを指します。これは神の属性です。チットは、何かの完全な性質を知るための完全な認識を指します。サットとチットが共に在るとき、アーナンダ(至福)があります。この至福は変わりません。これはブランマアーナンダ(至高の至福)として説明されています。これは砂糖と水を混ぜ合わせてシロップを作るようなものです。サット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)は変わらない神性です。形や名前は絶えず変わっています。それらは一時的で瞬間的です。虎や蛇の形は一時的です。したがって、それらは一時的なものとして取り扱われるべきです。
もし転んでしまったら、足が骨折するかも知れませんし、包帯をすることになるかもしれません。しかし、母親があなたを愛していようと愛していまいと、あなたの痛みを和らげるために彼女自身の足に包帯をすることはできません。彼女はあなたに同情するかもしれませんが、彼女の足に包帯をしてあなたの骨折を治すことはできません。この物質世界では、このような違いは本質的に存在します。
(1993年4月26日、コダイカナルでの御講話:石井 真 訳)

石井 真(いしい まこと)プロフィール
1963年生まれ。
明治大学法学部卒業。
シュタイナー教育の思想、理論の研究。
インドの宗教、思想(ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターなど)研究。
総合人間科学博士(Ph.D. of Human Science)。
東京都八王子市在住。

真実の私(私とは誰か?)