
真理は不二一元
二元論を超えて初めて至福は訪れます。私とあなたは1つであるとの平等の認識に至ります。現在の人間社会の混乱は、多様性が真実であるとの思い込みが原因であると言えます。
この地球に住んでいる人は約80億と言われております。顔姿形が同一なる人は、一卵性多生児であっても一人もいないのです。顔姿形だけではなく、精神性においても同様です。
広大な宇宙において、地球のような天体は数え切れないほどあり、それぞれの天体には地球人と同様の人類が数え切れないほど住んでいると考えられます。その人類が一人として同じ顔姿形をしていないと考えることは、妥当であると言えるでしょう。この現実は何を物語っているのでしょうか。
全ての人は、唯一なる存在がそれぞれの姿形を纏ってそこに現れていると言うことです。生まれながらにして、五体満足でない人、美しい肢体をした人、頭脳明晰な人、そうでない人と、あらゆる姿形が存在しますが、皆人であることに違いはありません。そのような外形的な違いを見て、私たちは多様性の認識をし、多様性は正しいとしているのです。
肉体は、呼吸をし、心臓が鼓動して、あらゆる臓器が肉体の機能を維持するため肉体の死まで1秒の休みなく動いております。肉体の機能を維持するための現象がなぜ起こっているのか、説明できる者はいないのです。
さて、私は人としてこの世に生まれ存在することになりました。肉体に死が訪れるまでの生き方を人生と言いますが、なぜ私は人間に生まれてきたのでしょうか。人生にどのような目的があるのでしょうか。人間以外の多種多様の生き物は、自然界を構成する存在として生まれています。
人間は天体地球の自然を自分たちの利益のために、地球という生命体を思うがままに扱ってきました。人間がこれまで行ってきた行為により、地球の環境は、あらゆる生命体において、その生存さえ脅かされる状況になってきています。このように、自然を壊し、他の生命の存在を脅かすために人間として生まれてきたのではないのです。人間の知能は、真理について知るためにあります。人間として生まれてきた理由とは、これが解答になるでしょう。
それは、「わたし」とは誰なのか、どのような存在なのかということであります。
仏教には、「涅槃寂静」、「心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃」の教えがありますが、この境位に至ったとしても、結局、「わたし」という存在がどのような存在であるのか理解はできないのです。
現象世界には多くの生命体が存在し、それぞれの生命体は、それぞれの姿形と生態をもつ不思議な存在であり、神秘の存在なのである。
仏像の台座や仏画に描かれる「ハス」、水中の泥の中で地下茎が作られ、水面上で葉を茂らせ、花を咲かせる。ピンクや白の花は甘い芳香を発し、朝に開き昼に閉じる。ハスの花は、種(果)とともに開く珍しい性質を持つ。ハスの更なる特異性は、水中泥の中に地下茎蓮根を作ることにある。蓮根はふしで繋がれ、それぞれの蓮根にはいくつもの穴があり、水中泥の中にあるにもかかわらず蓮根の穴の中に空気が存在する。
「トンボ」、幼虫時代はヤゴと呼ばれ淡水中で過ごし、ある時に陸上の植物などに上り、脱皮して幼虫の時の姿からは想像できない姿の飛ぶための羽を持つ成虫トンボになる。何故、ヤゴは成虫のトンボになる時期がきたことがわかるのであろうか。成虫トンボは空中を飛び回り、空中で静止して飛ぶことができるが、成虫トンボでは水中で生きることはできない。
自然界に様々な生態を持った生命体が何故存在するのか。それぞれの生命体は特有の生態を持ち自然界でそれぞれの任務を果たしている。
では、誰がそれらの生命体を創造したのでありましょうか。
科学的視点 → 「生命体は自然の法則と進化が創造した」
哲学的視点 → 「生命体を創造したのは、それを認識する意識(自己・宇宙意識)」
宗教的視点 → 「生命体は宇宙の法則(ダルマ)、または神によって創造された」
これが現在の見解であり、明確な答えはないのです。
私たちは、全ての生命体が、そのように現れている姿形と生態を知るだけであり、顕現した原初の因を知ることはできません。顕現した全ての存在は創造主の創造によると言わざるを得ない、明確には、創造した者が存在しなければ創造物は存在しない。
二元論は、多様性の中の全一性・一体性を知ることはできず、不二一元の真理に出会うことはない。全ての存在は、「それ」としか言い表せない「それ」が内在し、それぞれ独自の姿形をして顕現しているのであり、「それ」は、「それ」という言葉でしか言い現せない生命機能を機能たらしめる「それ」であり、生命体全てに内在する「それ」であって、「それ」によって維持される生命現象は、全ての生命体に同じ機能を有して共通して存在することが分かる。
二元論を超えるという事は、顕現している生命体の独自の姿形の深奥に存在し、その営みを機能させている真の存在である「それ」を識る事に他ならないのである。
つまり、私の実在に出会うという事である。

