「全一性」、「多様性の中の一体性」

バガヴァン シュリ サティア サイババは、ヴァヒニ集や多くの御講話の中で、「全一性」、「多様性の中の一体性」について、述べられております。これらの言葉は、「すべてはブラフマンなり」という意味です。
しかし、意味として理解しても、その本質を理解した事にはなりません。
バガヴァン ババが、様々な言葉で語るブラフマンそのものを実感として認識した時、本当の理解に至るのです。

視野を正し、幻想を手放しなさい
この創造の全てとその歴史の全ては、神の遊戯(リーラ)であり、至高神そのものであり、ブラフマンの真実(ブラフマ サッティヤム)であり、世界の真実(ジャガット サッティヤム)です。ブラフマンと世界の区別が消えるまでは、世界(ジャガット)は「相対的に現実」であり続けます。ブラフマンと世界の区別が消えた後は、世界さえもブラフマンとして見られ、ブラフマンとして感じられ、ブラフマンとして知られ、すべてが至高者で満たされている(サルヴァム ブラフマ マヤム)と実感認識されるのです。
より正確に言えば、幻影(マヤム)で満たされていると認識される個別の「すべて(サルヴァム)」はありません。唯一のブラフマンだけが存在し、第二の存在はなく、非二元的であり、単一で、永遠で、純粋で、不動です。この多様性を一なる者(エーカム)から生み出したのは誰でしょうか?その答えは、多様性は全く存在しないということです。この質問自体が意味をなしていないのです。個人も、力も衝動も、状況の連鎖や偶然も、この多様性を生み出したわけでもありません。
多様性は存在しません!「一」は「一」のままです。あなたがそれを多くのものと間違えているだけです。その過ちはあなたにあります。視野を正し、幻想を手放しなさい。至高の実在(ブラフマン)は相対的な世界と変わるものではありません。ロープは蛇に変わることはありません。あなたがそれを蛇と誤解したのです。ブラフマンは永遠にブラフマンであり、この事実に対するあなたの無知が、ブラフマンをプラクリティとしてあなたに見させているのです。世界は一本足という妄想の上に立っており、その足を切り落とせば、世界は倒れます。
あなたは、この多様性、この多層な世界、このプラクリティ、この幻想に基づく世界の消滅を毎日経験していますが、その経験を深く受け止めていません。なんという悲劇でしょう!眠っているとき、あなたの世界はどうなりますか?あなたの多様な世界はどこに内包されるのでしょう?深い睡眠がもたらす喜びの感覚の源泉とは何でしょうか?睡眠中、あなたは同じ妄想に囚われた個人であり、自ら生み出した幻想によって悩まされます。
そういうわけで、私についても、この特定の身体的な構築物と同一視しないようにと、何度もみなさんにお伝えしているのです。しかし、あなたは理解しません。あなたは私を一つの名前で呼び、私が一つの姿を持つと信じています。覚えておいてください、私が持たない名前はありません。私に属さない姿もありません。
(1962年11月24日プラシャンティ ニラヤム 御降誕祭における御講話より:石井 真 訳)

世界のすべての違いは、名前と姿のみに関連する
ある人は敵、ある人は友人として、あるいは、自分の子供や親戚と思うような区別に執着や嫌悪を抱くことは正しくありません。幻想と無知を捨て、それら全ての人の中に唯一の存在であるアートマ(真我)を見るべきです。
私たちには友人や敵、好き嫌いがあります。ヴェーダンタは、万物の背後に存する唯一者の視点を培うことを教えてくれます。私たちは歯が舌をうっかり噛んだときに歯を罰することはありません。なぜなら、それらの器官を自らの身体の一部と考えているからです。同様に、私たちは永遠で普遍的なアートマがすべての人々や場所に存在することをこころに留めておかなければなりません。違いを強調せず、その背後にある一体性に集中すべきです。身体に基づく関係性に重きを置くと、個人間の相違が浮かび上がりますが、一方、教師、友人、俳優、グル、弟子と言った場合の違いは名前と姿の相違であり、本質は同一であることを忘れてはなりません。全ての人に内在するアートマは、照覧者である意識として遍在しています。これらの名前と姿の背後に遍在するアートマの存在は、全ての人の一体性を確立します。
偉大なアートマ(真我)の観点から見ると、究極の分析において、自分自身の体を含む全てのものは、五つの基本原素で構成されたこの宇宙に属しています。このかりそめの世界全体が、私というエゴから生み出されています。現象はこころによる創作です。私たちの最終的な目標は、人間性から神性へ昇華することです。私たちはこの一時的で限られた人生の期間を生かして、大切な目標を達成しなければなりません。
人間は、身体とアートマ、つまりクシェートラ(身体)とクシェートラジュニャ(身体に宿るもの)の混合物です。また、それは、プラクリティ(自然)とパラマートマ(神)としても見なすことができます。それは、幻想と現実、またはスティラ(固定)とチャラ(動くもの)という二つの側面からなる種子のようなものです。クシェートラジュニャ、つまりクシェートラに宿る者が存在しなければ、身体自体の存在の意義はありません。言葉は物事の存在を指し示しますが、物事は言葉よりも先に存在します。「クシェートラジュニャ」は、「クシェート」に含まれる文字に比べて「ジュニャ」の追加の文字を持っています。クシェートラは、クシェートラジュニャに含まれており、追加の「ジュニャ」は叡知であるジュニャーナを表しています。クシェートラジュニャまたはジュニャーナスワルーパ(叡智の化身)がなければ、クシェートラは存在しません。
クシェートラジュニャ(叡智の化身)が身体に宿る限りにおいて、身体には生命が存在します。ヴェーダンタでは、身体はジーヴァ(個別の魂)の形を取った神が宿る神殿であると言われています。もう一組の単語として、スティラ(固定)とチャラ(動くもの)があります。自然は常に動き回っていますが、パラマートマ(神)は静止しているスティラです。常に変化するのは世界であり、変わらないのはパラマートマです。
(1973年6月5日夏期講習における御講話より:石井 真 訳)

神性への道
人々が「文化」と「霊性」について話しているのを聞くと、それらが異なるものであるかのように思われます。私の見解では、文化は霊性から派生した「香り」にすぎません。砂糖が様々な種類のお菓子に共通して存在するように、霊性も異なるように見えるあらゆる土地や国の文化に共通しています。つまり、文化は包括的な霊性の一部であることを認識すべきです。あなたはこの包括的な一体性の視点を育て、発展させなければなりません。身体の各器官や手足は身体と別の物ではありません。ビシュワム(宇宙)はビシュヌ(神)から切り離されたものではありません。同様に、あなたが「世俗」と「神性」または「世俗的」と「霊的」と呼んでいるものが、2つの別個で無関係なものではなく、1つの分割不可能な現実または真理の2つの側面であることを認識する必要があります。これを理解するのは簡単です。豆の種の例を考えてみれば、その種は同じ種皮で覆われた2つの胚葉から成り立っています。豆の種を畑に蒔き、発芽すると2つの厚い胚葉とその間にある胚芽からなる苗を見ることができます。この苗は両方の胚葉から栄養を得て成長します。同様に、人間という苗も成長と完全な発達には、世俗的な側面と神性な側面の両方が必要です。人生のこれら2つの側面は、互いに独立して存在することも、孤立して繁栄することもできません。それらは密接に結びつき、切り離せません。それら2つの側面の総和が「文化」と呼ばれるものです。広い視野を持たない人々は、ある国の文化と別の国の文化の表面上の違いさえも見えてしまいます。真の英知は、世界文化の表面的な違いの背後にある基本的な一体性を見出し、認識することにあります。同じことは宗教の概念にも当てはまります。ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラム教などが異なる宗教であると言うことは、狭量さだけでなく、「宗教」という言葉の意味についての理解の欠如を示しています。 「宗教」とは「真我実現」を意味し、「真我実現」は異なる人々が信仰するそれぞれの宗教に関係なく、同一なのです。すべての宗教は基本的には一つであるというのは論理的に導かれることです。より正確に言えば、ただ一つの宗教しか存在しないのです。
(サマーシャワーズ1990年夏期講習における御講話より:石井 真 訳)


参考
「宗教」の語源
(小学館「バウッダ〔佛教〕」中村元 著、三枝充悳 著))より
「宗」とは原初的、根本的な究極の原理、あるいは究極的な真理を意味する。それは言語をもってしては表現できないものである。ところが「教」は、言葉の助けを借りる教え、または説明である。究極の原理は言語をもってする表現を超えたものであるが、人の心にそれを伝えるためには、人は言葉に頼らなければならない。真理または実在の持つこの両局面が「宗教」という語に内包されているのである。(p.319 中村元 著)
この「宗教」という言葉は「ランカーヴァターラ・スートラ」(楞伽経)に「宗」「教」の起源を辿ることが出来る「宗」のサンスクリット原語はシッダーンタ(根本)siddhāntaまたはシッダーンタ(根本)・ナヤ(道理)siddhānta・nayaとされ、鈴木大拙博士は、realization と訳した。「教」のサンスクリット原語はデーシャナー(教え)deśanā、または、シャーサナ(教え)śāsana、または、デーシャナー(教え)・ナヤ(原理)deśanā・nayaである。(p.320 中村元 著)

釈尊のことば
ところで根本の道理(シッダーンタ・ナヤ)とは、いかなるものであるのか?ヨーガ行者たちがそれによって、自己の心に見られる対象の分別妄想を除くこと、すなわち、同一性心別異性・二者性・非二者性・一方の偏見に堕すること、心・マナス・意識(マノーヴィジニャーナ)を超え、自ら内面的に知るすぐれた境地・理由と論証と見解の特徴が止息し、一切の悪い思弁家、異教の徒・伝統的な教説を固守する人びと、独りで修行し、さとりを開く人びと、無・有という二つの極端説に堕している人びとに汚されることのないものーーそれを、わたしは根本の道理(シッダーンタ)であると説くのである。(P.323 中村元 著)


神が愛する信愛
神の愛の化身のみなさん!粘土は一つですが、それから作られる製品は形状や名前が異なります。金は一つですが、それから様々な装飾品が作られます。ミルクは様々な毛色の牛から搾られますが、搾られたミルクは同じです。神は一つですが、様々な形態をとって顕現します。
深淵の海には、無数の波が生じます。波は互いに異なるように見えますが、海は一つです。同様に、世界には無数の生き物が存在しますが、それらは全てサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)という海から生じた波です。
人が日常生活で経験する喜びや悲しみ、執着や嫌悪、感覚的な快楽の追求は、こころの波立ちによるものです。人が二元性の感覚に囚われている限り、彼は執着と憎悪から自由になることはありません。人が自らの内なる神性を認識しない限り、二元性からの解放はありません。


今日の人間の窮状
西洋の生活様式と異国の言語の影響が、バーラタの人々の栄光ある文化と正しい行動を侵してしまっています。バーラタの人々が目を覚まし、母国の知恵と文化を古代の栄光に回復する努力をする時が来ています。この偉大な国の安全、安定、平和を確保するための主要な必要条件とは、人々の間の寛容、理解、そして一体性です。すべての存在の中に同じ神聖なアートマが存在しているという感覚を培う必要があります。そうすることで、叡智、社会的正義、そして真の自由の意識が広がっていきます。全人類は普遍的な愛を基にした兄弟姉妹としてみなされるべきです。そうして初めて、人間として生を受けた、この人生の目的が果たされます。真の神性の認識に基づく至福を享受するためには、私たち一人ひとりの中に認識される一体性が必要です。
いにしえの時代、リシたちは人生の充実を味わっていました。彼らはこの普遍的な愛の至福を自らの中で経験し、それを全人類に伝えました。彼らは、自らの内なる実在を知る手段であるプレマ・タットワ(至高の愛の教え)を唱えました。
今日、この国の人々には安全や安心がありません、世界を見ても混乱が広がっています。憎しみと怒りが人々の間で蔓延していますが、しかし、このような状況の下で、人々がたどるべき唯一の道は愛の道です。人は利己主義の奴隷となってしまいました。
西洋の産業発展の急成長に伴い、人間性が低下し、そのため、人は真の内なる自己から遠ざかってしまいました。科学技術の分野で大きな進化を遂げ、世俗的で物質的な知識の発展の高い段階に到達しても、人は霊的で道徳的な目標からは、はるかに遠ざかっています。誰もが自己中心的な追求のみに耽溺しています。事実、人は利己主義の奴隷となってしまったのです。
科学技術の進歩のため、人は肉体に重要性を置き、それを実際の自分と見なし、身体のニーズや快適さに対応するための時間を費やしています。人は身体を玩具として使用し、皮相的な方法でそれを使って遊んでいます。本来、身体はプラジュナ・シャクティ(統合的な意識)を通じて、さらには、スパンダナ・シャクティまたはプラーナ・シャクティ(脈動する生命の力)の指示を通じて機能しています。

人が機能する三つの力
人は、放射、振動、物質の三つの力の組み合わせによって機能しています。身体は単なる物質で、それはプラクリティと呼ばれています。プラーナ・シャクティがそれを活気づけます。この振動は、意識であるプラジュナ・シャクティによって指示されます。したがって、人の生命は意識、生命力、物質の組み合わせです。この事実を理解せずに、身体が全能であるという誤った概念で常に身体だけを気にかける人がいます。
皆さんもご存知のように、米国は食べ物が豊富にある国として考えられています。したがって、人々はよく食べ、物質的な楽しみを味わいます。彼らは過度に食物を摂取し、豪華な生活を送っています。しかし、その国では他の国よりも心臓病による死亡が多いことがわかっています。
スウェーデンはヨーロッパで非常に裕福な国であり、政府も可能な限りの快適さを提供し、人々の世話をしています。こんな繁栄にもかかわらず、この国には他のどこよりも自殺の件数が多く、離婚の件数も多いです。これは何が原因なのでしょうか?これは物理的または物質的な環境の欠如ではなく、霊的な視点の欠如がそのような状況の原因となっています。それは、人々が、一時的で儚い身体を自らと同一視し、永遠の存在である真の内なる自己について知ることなく、物質的な生活を送っているからです。

ガヤトリー・マントラの力
バーラタでは、いにしえより、神聖なガヤトリー・マントラを通じて、霊的な認識が発展してきました。マントラ「オーム・ブール・ブワッ・スワハ」は、すべてに内在する神性の三つの基本的な原則を表しています。ブールは物質を意味し、ブワッはプラーナ・シャクティ(生命エネルギー)、そして、スワハはプラジュナ・シャクティ(認識)です。これら三つ、放射、振動、物質エネルギーによって人は活性化されます。しかし、この事実は認識されていません。
バーラタの神話において、ナーラダ仙はトリローカ・サンチャーリ(三つの世界を絶えず巡礼する者)としてよく知られる賢者です。ナーラダ仙は生命の原則を顕しています。三つの世界は、物質エネルギー、生命力、潜在的なアートマ・シャクティ(霊的エネルギー)を意味する、ブール・ブワッ・スワハです。
人はプラクリティ(現象世界)とジーヴァトマ(魂)とパラマートマ(至高の主)との関係を理解する努力をしていません。これらは非常に密接に関連し、実際それらは異なるものではありません。パラマートマとプラクリティ、神と自然の関係は、母と子との関係と同じであり、人と社会の関係は、蜜蜂と花との関係と同じです。子供が母乳で育てられるように、蜜蜂が花の中の蜜で育てられるように、人は自然の贈り物を享受する必要があります。太古の昔から、人は否定的な考えに悩まされてきました。貪欲な男が、一気にそれからすべての卵を取り出すことができると考え、金の卵を産むガチョウを殺したという伝説的な物語があります。今日の科学者たちは、自然の贈り物を限界を超えて利用し、なすがままにこのような愚行を犯しています。それにより、地震などの自然災害を引き起こされ、人類全体に危険をもたらす巨大な不均衡を作り出されているのです。この点に関して、科学自体を非難することはできません。非難されるべきは、自然への配慮なしに、天然資源の過度な枯渇の効果を考慮せず、科学的発見を適用する人々です。

大自然の否定的な側面を引き起こしてはならない
人は社会の一部として自らを考え、身体の各々の器官が身体全体のために使われているように、社会の福祉のために自らを役立てなければなりません。再度強調したいことは、社会はプラクリティ(大自然)の一部であり、プラクリティはパラマートマ(至高の主)の一部である、ということです。したがって、人と神との間には密接な関係があります。自然は人よりも進化した領域にあるのです。自然を保護するために、人は自然を利用する限度を見極めなければなりません。人が大自然を思慮分別なく搾取するなら、自然はそれに対する反作用を示し、問題が生じます。自然を保護するために、人は節制を実践し、自然のマイナス面を引き起こさないようにしなければなりません。
この点において、科学者は自らの発明によって社会に生じる可能性のある有害な影響について懸念していません。彼らは人類の福祉を気にせず、知能を利用して破壊武器を生産し続けています。
快適さを享受する際には注意が必要です。過度な快適さは人の心を台無しにして、幸福の代わりに苦しみを引き起こすかもしれません。「ナ・シュレーヨー・ニヤマム・ヴィナー」(一定の制約なしに良いことは何も達成できない)。技術の進歩と過度な快適さの提供のため、生活は機械的になり、霊性が衰退しました。科学はすべてを断片へと分解しますが、霊性は多様性の中での一体性を築きます。今日、人は人類全体としての一体感を育む努力をしていません。

人、神、大自然の密接な関係
大気中のオゾン層は、地球上の人々を太陽放射の有害な影響から守っています。技術が進歩し、多くの工場が建設され、大気中に有害なガスが排出された結果、オゾン層が薄くなりました。この状態が放置されれば、破局的な結果となるかもしれません。科学者たちはこの問題に対処しようとしていますが、解決策を見つけることができません。
この状況の真の原因は、大気中により多くの二酸化炭素が放出されていることです。通常、植物や木々はこのガスを吸収し、光合成の自然なプロセスで酸素を供給しています。しかし、森林伐採が驚くほど進行しているため、大気中の二酸化炭素の量がかなり増加しているのです。したがって、この状況の解決策は、植林をしてより多くの木を至る所で育て、他の目的のためにそれらを伐採せずに既存の森林を保護することです。このように、人と大自然と神の関係は非常に密接であり、このことが科学者の意識に上っていないのでしょう。
すべてのことを徹底的に調査する必要があります。ダルマとはバーラタに起源を持つ言葉ですが、しばしば誤解されています。西洋人と私たちバーラタの国民の心的態度は大きく異なります。西洋では、個人の権利により関心があります。生まれるとすぐに、子供は権利を得、父、母、社会、政府それぞれが権利を持ちます。労働者にも権利があり、統治者にも権利があります。西洋では権利に関心がある一方、バーラタの人々はすべての人のダルマまたは義務に重点を置いてきました。

ダルマの概念はバーラタ独自のもの
ダルマという言葉はバーラタに固有のもので、サンスクリット以外の言語や他の国にはありません。それは一部の人々に「正義」として、また他の人々には「理由」として訳されていますが、ダルマはダルマとしか言い表せるものではなく、他の言葉によって置き換えられることができません。「ダルモー ラクシャティ ラクシタハ」(ダルマはそれを保護する人々を保護する)。すべてを制御し、包含するものはダルマです。ダルマと宗教の間には大きな違いがあります。ダルマは海のようです。宗教は小さな湖のようです。
宗教は個人に関連しており、文化は「基本的な秩序」です。彼らは「ムハンマド文化」、「ヒンドゥー文化」、「キリスト教文化」という用語を使い、争います。実際には、一つの宗教ともう一つの宗教の間に違いはありません。すべての人の中に愛の形で神がいるので、人と人との間に違いはありません。したがって、信仰の違いによって戦うのは正しくありません。
すべての人は人類という全体の一部です。この真実を理解すると、人はダルマを理解することができます。
「カルマンイェーヴァ アディカーラステー マー パレーシュ」とギータは言っています。人は自分の義務を果たす権利だけがあり、行動の結果を要求する権利はありません。自らの義務を果たす以外の権利は誰にもありません。人は職務を果たす責任がありますが、今日の人々は権利を求めて騒ぎ、義務を果たしたくないと思っています。結果はそれを求めるかどうかにかかわらず常に伴います。権利と義務は、鳥の飛ぶのを可能にする両翼のようであり、人の移動を可能にする乗り物の両輪のようです。人は一つの車輪では運転できず、鳥も一つの翼で高く飛ぶことはできません。
責任を持って職務を果たすと、結果は自然に整います。これが今日、はっきりと理解されるべきことです。すべての人がきちんと義務を果たせば、世界には何の問題もありません。人が義務を果たさずに権利を主張するため、混乱と混同が生じています。責任を果たさずに権利を行使することに熱心なため、人は内なる葛藤に喘いでいます。

身体は他を助けるために与えられている
人は自らの真実を認識すべきです。身体が与えられているのは、義務を果たすためです。どのような義務でしょうか?「パローパカーラールタム イダム シャリーラム」(この身体は他者を助けるために与えられている)。すなわち、人の義務は他者を助けることです。しかし、人々はこの広い視野を持ちません。
今日、人にこのような広い視野がなく、心が狭いがために、国にはひどい対立と苦しみと無秩序が見られます。人はこの狭い利己的な感情を捨てて、愛を広げ、すべての人が一つの家族に属しているという感情を育むべきです。すべてに内在する神性は一つです。

絶えまなく統合された意識


電球はたくさんあるが、流れる電流は同じ一つのもの、
宝飾品はたくさんあるが、素材となる金は同じ一つのもの
生物は多いが、呼吸は同じ一つのもの
国は多いが、地球は一つ

人々は上述のことを意識に置いて、広い心を培うべきです。そうして初めて、人類は繁栄します。すべての人の中に神性があり、人は誠実にそれを実現しようとするべきです。理論を伝えるだけでは十分ではありません。それを伝えたり説教する人は多くても、それを実践する人は稀です。多くの人が一つのことを話し、話したこととは別のことを行っています。思考、言葉、行動には調和が必要です。これは頭(Head)、心(Heart)、手(Hand)の統合です。しかし、現代の人々はあることを想いながら、別のことを話し、さらに別のことをします。これが、プラジュニャ・シャクティ(良心の力)、プラーナ・シャクティ(生命力)、物質の力がばらばらに逸れている理由です。物質、生命、良心は統合されるべきです。
良心については十分に留意しなさい。それは常に真実を告げるべきものであり、決してあなたを間違った道へと導くことはありません。ヴェーダはこれを「プラジュニャーナム・ブランマ」と呼びます。それは身体、マインド、知性、および内部の器官に等しく存在します。これは絶えまなく統合された意識です。今日の世界では、人は自らの潜在的な神聖な力を実現しようと努力する人はおらず、物質的なものだけを気にかけて、利己的な考え方が蔓延しています。「権利」は利己的な思考から生まれ、対立に終わります。ダルマはプレマ(至高の愛)から生まれ、アートマ(霊性)に融合します。したがって、人は「権利」を放棄し、愛から生まれる「義務」をとるべきです。そのような人だけが真実の人生を送ります。
身体のすべての器官の機能を司っているのは内なる神性です。その神性はプラジュニャ・シャクティ、生命力、そしてチャイタニヤ(普遍意識)です。この意識はどの人の中にもあります。それはブラフマンです。これはスートラ(霊的格言)で言われています。「唯一なる者はすべての存在に浸透している」ーースートラはまた、糸を意味します。花輪を作るとき、全ての花を整え保持する糸は一つです。
それぞれの花は異なる開花の段階にあり、毎日変化しますが、糸は今日も明日も同じです。同様に、チャイタニヤ(普遍意識)は、人が子供や少年、成人、または老齢である間も等しく内側に存在します。人の外見が少年、成年、祖父などと変わったとしても、内部の普遍意識は変わりません。女性と男性の区別もありません。変化は身体にあり、アートマには変化がありません。アートマはすべての輝きの中に存在します。アートマには美しさがあります。この美の原理を理解するべきです。

人類への奉仕こそが美
手には慈善が、言葉には真実が、耳には知恵が美を授けてくれます。これら以上の美のほかに何が必要でしょうか?人生において、人への奉仕は美です。カンナダ語には、家が村を、花が木の枝を、月が空を、波が海を、人格が人を美しくする、という名言があります。
すべての人には知性があります。それを適切に用いることによって、その本来の役割を活かすことになりますが、しかし、実際には人は知識を誤用しています。この「知識」は「技術:テクノロジー」とも言われますが、実際には「トリック・ノロジー」(偽りの知識)です。このため、人の心には、平安が見られません。人は他の人を喜ばせるために偽りを口にします。その時、彼は他の人を欺いていると考えるかもしれませんが、しかし、彼は自らを欺いています。人は内なる良心の命令に反して行動してはなりません。良心はチットであり、意識はサットです。この両方が結合してアーナンダを与えます。それらは砂糖と水(サットとチット)を混ぜて得られるシロップのようなものです。そのシロップがアーナンダです。「I:私」と「You:あなた」は「We:私たち」と言うために組み合わせるべきです。多くの人がこれを正しく理解しないまま、「私(I)とあなた(You)は一つ(One)です」と言います。これは正しくありません。「私(I)とあなた(You)は私たち(We)です」というのが正しく、さらには「私たち(We)と私たち(We)は一つ(One)です」となります。私(I)はあなた(You)の中にいて、あなた(You)は私(I)の中にいるので、私たちは一つです。これはアートマとアートマの組み合わせであり、物質と物質の組み合わせではありません。物質と物質の間の結びつきは生命力です。プラジュナ・シャクティという無限の力によって生命が維持されています。プラジュナは源であり、プラーナはプラジュナによって作動します。プラジュナ・シャクティがなければ、生命は機能しないでしょう。したがって、人間の生命は、プラジュナ、プラーナ、そして物質の三つの組み合わせです。人はこの真実を知らず、物質である身体だけを気にかけています。

一体性により、人は純粋さと神性に至る
古代のリシはこれらの三つを「ブール、ブワッ、スワハ」と呼びました。この一体性をすべての子供、少年、老人の中に体感するとき、どのようにして誰かを憎むことができるでしょうか?一体性の原則を発展させると、平和が訪れます。「分割して支配する」政策は、政治の分野で社会を破壊へと駆り立てています。霊性の領域では一体性が基盤でなければなりません。それは純粋さと神性につながります。
神の愛の化身のみなさん!霊性は単なる崇拝、ジャパ、瞑想だけではありません。これらは良い活動であるかもしれませんが、霊性を構成するものではありません。動物的な性質を追い払い、人から神へと進むことが真の霊性です。人、神、動物の中にそれぞれの特性があります。動物的性質を取り除き、神なる性質を育むべきです。
サーダナとは何でしょう?それはこの身体を用いて良い行いをすることです。良い行いはすなわち神の行いです。ヴィヤーサ仙の18のプラーナ(聖典)の本質は、「常に助け、決して傷つけない」として彼によって要約されています。これが真の信愛です。一方で礼拝や瞑想を行いながら、他者を傷つけることが本物のサーダナであると言えるでしょうか?

神は愛、愛は神
人は怒っても、それをすぐに行動へと移すべきではありません。せっかちな行動は望ましくない結果をもたらしてしまいます。「急ぐと無駄を産み、無駄は心配を引き起こす」人は行動を開始する前に、それが正しいか間違っているかを考えるべきです。怒りが少しずつ収まると、人は考えを変え、せっかちな行動をやめるようになります。これは日常生活で自らをコントロールする実用的な方法です。これは文化と呼ばれる生き方です。社会のために役立つような思慮深い行動をし、思いやりと一体性を促進すべきです。良い考えを育みなさい。これが真のサーダナです。神は愛であり、愛は神です。
愛は一つです。他人を傷けるのはよくありません。地球は球体です。球体を安定させるためにはバランスを保つ必要があることを知っているにもかかわらず、人は際限なく地球が所有する自然の資源を利用し、不均衡を生み出しています。
私は過去45年間チェンナイを訪れてきました。今では、以前のボンベイ(ムンバイ)のように午前2時でも自動車が走行しています。このため多くの二酸化炭素の排気ガスが放出されています。工場や産業が至る所にあります。こうして、大気汚染が増加し、病気が蔓延しています。これらはすべて技術的進歩の危険な副産物です。

すべてを愛し、すべてに奉仕する
シュラマ(誠実な努力)とプレマ(至高の愛)を通じてのみ、神に仕えることができます。神に仕える最良の方法は、すべてを愛し、すべてに仕えることです。
マトゥラにはある老婦人がいました。彼女は夜の一番暗い時間に毛布を持って、寒さで震えている貧しい人々にそれを配っていました。ある日、彼女が頭を下げて貧しい人々に奉仕していると、数人の若者が集まってきて彼女に尋ねました。
「おばあさん、これほどまでに無私の奉仕をしているのに、なぜ頭を下げて歩いているのですか?」彼女は答えました。「神は多くの手で人々に豊かさを与えてくれているのに、私はこの2つの手だけでしか人に仕えることができません。そのことを申し訳なく思っているのです」
私たちは他人と分かちあおうとすることなく、何でも手に入れるためだけに受け取ることしか頭にありません。これは一方通行です。「犠牲なくして不死は得られない」とヴェーダは言います。人は自らを捧げ、自らが持っている物を他人と共有すべきです。そうして初めて、心は平安となります。他人を幸せにしなさい。犠牲のサーダナをしなければなりません。他の帰依者に手を差し伸べなさい。慈善は差し伸べる手に美を与えます、手はバングルによって美しく飾られるのではありません。
マインドはハートの金庫を開ける鍵のようなものです。マインドを神に向ければ自由を得ることができ、世界に向ければ束縛になります。
「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(世界の全ての人が幸せでありますように)という気持ちを育み、世界の一体性を願いなさい。一体性から純粋性が得られ、純粋性から神性が得られます。現在は閉鎖されたコミュニテイと敵意しかありません、これを排除する必要があります。
プレマはすべての人を結びつける結合要因です。したがって、プレマ、普遍的な愛を育みなさい。
(1993年1月21日チェンナイのカーマラジ記念ホールでの御講話:石井 真 訳)


二元性からの自由
今日、分裂や相違を広く推進することに忙しい知識人に事欠くことはありませんが、多様性の中に一体性を認識する者は極めてまれです。世界は今、一体性を体現する真理に生きる人々を必要としています。
こころこそが相違の原因であり、こころを制御することで相違は排除されます。人は自らの真の本性を知る努力をしない限り、神性との一体性を見出すことがどうして可能でしょうか?人が神性を実感認識するために、神の栄光を聞く(シュラヴァナ)に始まり神への全託(アートマニヴェーダナム)に至る、九つの帰依の形式が示されてます。
これら九つの帰依の形式の中で、最も偉大なものは全託です。しかし、誰が、何を、そして誰に対して全託すべきなのでしょうか?この問いを探求するなら、人は全ての物質が神の表現である五大原素(パンチャブータ 地・水・火・風・空)で構成されていることに気づきます。人もまた神の顕現です。神は人とは別ではありません。しかし、人は身体と自分とを同一視しているため、これを認識することができません。身体はただの道具に過ぎません。人がその観念を捨て去るなら、人は真我を体験するでしょう。
(1994年12月18日プールナチャンドラ・オーディトリウムでの御講話より:石井 真 訳)

真の教育は、人を解放する
人はあらゆる形態の知識を習得し、討論で敵対者を打ち負かすかもしれない
勇気と勇敢さを携え戦場で戦い、広大な王国を治める皇帝になるかもしれない
牛や金を慈善として提供し、あるいは、夜空に無数の星を数えるかもしれない
地上の数え切れないほどの種類の生物の名前を言い当て、あるいは、ヨガの8つの形態の専門家であるかもしれない
月にさえ到達するかもしれない
しかし、そのような人であっても、身体、マインド、感覚を制御することができるだろうか?
それゆえ、なによりもまず、内側に意識を向け、マインドの至高の平安の境地を達成するがよい

愛の化身のみなさん!教育の意義を知って初めて、あなた方は自らを学生と呼ぶことができます。教育とは単なる本の知識の習得を意味するものではありません。多くの人が本の知識の専門家となり、多くの人が教育の名を振りかざし、ひとかどの学者になっています。しかし、一体これらの知識人が世界に対してどのような役割を果たしていると言えるでしょうか?社会で生まれ育ち、社会から知識を得た彼らは、社会のために何をしてきたのでしょう?社会に対する感謝の意を示さない彼らの学識と教育の価値とは何でしょうか?
シュリ・オーロビンドはかつてカルカッタ大学の学生たちに、「学生たちよ!なぜこの知識を習得するのか?あなた方の学びは利己的な目的のためだけなのか?みなさんは社会の費用でこれらの技能を習得したが、才能を生かし社会への恩義を返さないのであれば、本は焼いた方が良いだろう」と言いました。今日、科学は大いなる進展を遂げました。多くの科学技術の分野が学生に教えられています。この知識は、社会の利益のために、それとも学生の名声のために社会によって授けられるものなのでしょうか?偉大な知識人になった彼らには、本当の変革があるのでしょうか?

チャーチルはかつて、「人間はすべてを征服したが、自己を征服することはできなかった」と言いました。今日の科学教育が教えるものは、自己に関する知識ではなく、外部の世界についてです。人間の全努力は、今日、外部の世界についてすべてを知ることに集中しています。これは単なる物質的な知識に過ぎません。今日の学識ある人間は、外部の世界について様々なことを知っていますが、自らの本質については何も知りません。
真の関係とは、内なる真我との間に築かれるものです。誰もが「あなたは誰ですか?」という質問をしますが、自分自身に「私は誰なのか?」と問いかけることに興味を持つ人はいないようです。最初の質問への答えは、あなたという人物の物質的側面に関連していますが、二つ目は霊的側面に関連しています。物質的側面と霊的側面との関係とバランスが密接に確立されるとき、人間の優れた資質が花開きます。物理的な知識はマイナス極であり、霊的な知識はプラス極です。両極が結合される時、人間性が花開きます。教育の目的は、物質的知識と霊的知識の幸福な融合を生み出し、人間の優れた資質を花開かせることです。すなわち、教育の目的は人格の全面的な発展です。
人間は、思いやりのある存在であるべきです。他人の苦境に接し、ハートを溶かさない教育は何の役に立つのでしょうか?現代の世俗的な教育は人間を冷酷にしています。知性を磨くために一生懸命努力するように、ハートも広げるべきです。このことが認識されなければ、あなたの知性と学識は何の役に立つのでしょうか?適切な教育によって、マインドとハートの両方が変わるべきです。

この永遠の真理は今日忘れられています。日常生活における慈悲と愛の実践が欠けています。これらの永遠の価値がなければ、あなたの教育は何の役に立つのでしょうか?

現代の科学者たちは地球を地下深くまで掘り、地球内部に存在する、大きな経済的利益をもたらす資源を乱獲しています。このような無差別な行為によって、彼らは地球のバランスを乱し、世界を大きな危険にさらしています。この不均衡は、世界の存在そのものを脅かすほどに至っています。
今日、私たちはみな科学と技術を崇拝していますが、あなたがとても誇りに思っているこの科学と技術とは何ですか?この知識はすでにあなたの中にあります。適切な探求と識別は、これらの真実をあなたに明らかにします。
化学の初心者である学生であっても、水素原子2つと酸素原子1つを組み合わせることによって水が形成されると言うでしょう。それらを合成する方法さえ知っています。しかし、その水が社会のすべての人々に均等に分配されるような十分な努力がされているでしょうか?

社会の福祉は常にあなたの視野にあるべきです。あなたの知識と技能が利己的な目的のために使用される場合、その用途は何でしょうか?
ムンバイでは、一部の人々がクロール(100万ルピー)を使って海水を飲料水に変えています。このような無益な努力でクロールが浪費されています。このような方法によって、約5,000ルピーの費用で飲み水をコップ一杯得ることができるかもしれません。この国は、ガンガやヤムナなどの神聖な川によって供給されています。必要なのは、この水を必要とする人々に行き渡るよう配布することです。これは、海水を飲料水に変える費用のほんの一部しかかかりません。この種の技術努力は、4分の1のルピーでピーナッツを買い、半ルピーでそれを家に運ぶようなものです。そのような学びは知識ではありません。それは純粋な無知です。
この無知は、知識の極めて近くにあり、それは光の源の下に暗闇があるのと同じようなものです。技術的な知識が急速に前進し、科学が大いに進展したと人は信じています。しかし、事実は、物質的な知識の成長と並行して、無知も著しく成長したということです。あなたはこの無知を完全に気づくことなく、ニーズの一つ一つを満たすためにお金と努力を4倍使い続けています。これがバーラタ、インドの目に見える貧困の理由です。
現代の科学者や技術者は何をしているのでしょうか?彼らには何か考えがあるのでしょうか?彼らは、地球上のすべての資源は人間の使用と搾取のために存在すると主張しています。あらゆる種類の鉱物や鉱石の無差別な採掘が、いわゆる人類の利益のために行われています。地球は球体です。一方からの物質の系統的な取り除きは、他方が重くなるために不均衡を引き起こします。バランスを保つのは神の摂理です。このバランスは崩してはいけません。バランスの喪失は地震や他の自然災害の原因です。
人は地球上での不均衡を引き起こしているだけではなく、産業廃棄物と都市廃棄物で海や川を汚染しています。水質汚染は、人々が汚染された水を飲まざるを得ない段階にまで達しています。
真の科学は、あなたの知性を開発し、研ぎ澄ませるのを助けます。多くの科学者がいて、あなたたちの多くも科学の学生です。あなたの内側から来る叡智が最上位であることを知るべきです。2つめのレベルは技術であり、3つめはバランスであり、4つめは洞察です。スワミはあなたに、知識を技術に変えるように、それを殺さないようにと言います。知識が殺されると、不均衡が生じます。なぜ今日、世界でこのようなバランスの喪失があるのでしょうか?これは、あなたがそれを技術に変えるのではなく、神が与えた知識を殺してしまったからです。
(1999年11月22日プラシャンテ ニラヤムにおける御講話より:石井 真 訳)


一体性の原理を理解しなさい
愛の化身のみなさん!
愛は外部からやってくるものではありません。それはすべての人のハートに内在しています。人は愛なしで生きることはできません。この愛は夫婦の愛、母親と子供の愛、友人の愛など、さまざまな形をとります。異なる形をとっているにもかかわらず、愛は同じです。もし誰かが神がどこにいるのかを尋ねたら、あなたは神が愛の形ですべての人のハートに存在していると言うことができます。この愛とは一体性の原理を意味します。愛の原理に従って生きる人生こそが真の人生です。愛の原理なしには人生はありません。他のすべての価値は愛の中に含まれています。
小さな例を挙げましょう。数日前、ショウリーは肉体を去りました。多くの人々が彼の葬儀に参加しました。彼の体が火葬されると、彼の体の五つの要素はそれぞれの源と融合しました。つまり、土は土と融合し、火は火と融合し、風は風と融合し、それ以降も同様です。最後に残ったのは何でしょうか?ただの一つの灰の山です!しかし、彼の中にあるアートマの原理は神聖な道をたどりました。
すべてはブラフマンに内在しています。ブラフマンは唯一無二です。したがって、もし誰かがあなたの名前を尋ねたら、「私はブラフマンです(アハン ブラフマースミ);私には他の名前はありません」と答えるべきです。人はラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ、ナーラヤナなど、さまざまな名前で神を呼びますが、ブラフマンは一つです。「ブラフマンだけが真実であり、世界は非実在です(ブラフマ サティヤ、ジャガン ミティヤ)」。
人は神にさまざまな名前を与えます。名前は個々の好みに応じて与えられます。母親は子供に名前を与え、それらの名前で呼びます。同様に、私たちはこの世界でさまざまな名前で人々を呼びます。しかし、神にはただひとつの名前があり、それがブラフマンです。ブラフマンの原理を理解する人は、自らがブラフマンとなります。ラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ、ナーラヤナなど、神のすべての名前はブラフマンの側面です。したがって、名前にあまり重要性を置くべきではありません。
真実、正しい行い、平安、愛は神聖な原理です。これらの神聖な原理に従うことで、神に近づくことができます。ブラフマンのどの名前でも、すべてに神が内在しているという感覚で瞑想してください。他の人をどんな名前で識別しても、ブラフマンは全てに普遍的に内在しています。どこを見ても、ただブラフマンだけが在ります。ブラフマンこそが唯一の現実です。したがって、常にブラフマンを瞑想してください。
(2008年03月06日 プラシャンティ・ニラヤム シヴァラトリにおける御講話より:石井 真 訳)

石井 真(いしい まこと)プロフィール
1963年生まれ。
明治大学法学部卒業。
シュタイナー教育の思想、理論の研究。
インドの宗教、思想(ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターなど)研究。
総合人間科学博士(Ph.D. of Human Science)。
東京都八王子市在住。

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